please_hitme

「ピンと来てくれ」の意です

積み重ねたから戻れない

過去が自分を支えると同時に、足を引っ張ることもある

 

・「キャラ」ってあると思うんですよ。「自分はこういう人間だ」と示すための態度というか。それが「素かペルソナか」問題は多々あれど、多かれ少なかれ比較的多くの人があると思うんです。加えていうと、ペルソナが無い人はすごい。(その人にも別で考えてることがあるのかもしれないけれど、すごいなーと感じてしまうよね。「相手に好かれたい」とか「人間関係を崩したくない」「人間関係を円滑にしたい」とかがペルソナを使うときの分かりやすい理由だったりするけど、それに重きを置いてない人は、その人の人間性は度外視してもすごい、と感じてしまう。加えて言うと、ペルソナの使い方がすごく適切な人が稀にいたりする。そういう人はただただ驚くし、めちゃめちゃ羨ましい、と思う)

 それ以上に自分の言動や行動が今、素かペルソナかがわからなくなってたりするとき、ありません?

 

 相手につけてしまった自分という印象故に、そこから逃れることが出来ず、その自分をさらに積み重ねてしまう。途中で「あれ、私このキャラ設定ミスった...?」と気づくが、時すでに遅し。修正するには長い時間が必要だったり。相手の思考回路によっては修復不可能だったり。オーマイ!

 

・人から見た印象は、積み重ねてしまうものであったりする。今まで出してた言動行動とは違うキャラを相手に出してしまうと相手は戸惑ったりする。戸惑うだけならいいのだけれど、相手の思考の枠組みから外れるとあまりいいことにはならないのが定石だったりする。そうやって考えると、ちょっとずつ修正しようにも大変になる。大変だ!
 積み重ねてしまったがゆえに逃れられないものが多々ある。これは前のブログでも書いた気がする。その業を背負って生活するのか、一回リセットするのか、それとも違うルートを探るのか。諸々選択肢はあれど、生活が進んでいくことには変わりなかったりする。

 

・先日社長と話した。「社長という権限を用いて、会社を変えるのは怖くないですか?」と質問したら、「僕は変えない方が怖い」と話していた。この人にしか見えない世界があるのだろうな、と思った。同時に積み重ねてきたからこそ、逃げられないことや、指揮をとらなくてはいけないことがあるのだな、と漠然と感じた。お金を稼いでいる、社員の生活を担っている、色々な人の考え方を背負っている、色んな業を背負っているのだな。同時に、「力を持ったら、考えなくてはいけないことが増えるな」と思った。
 「適切や程々がいい」というが、大きな力を持つことで、業を背負ってくれている人がいたりする。わかりやすく言うと、上に立つ人は批判をされる。でも同時に、上に立てる者に人は群がったりする。

 

 何かを積み重ねる、ということは、それを背負う、ということだったりする。
 自分が背負ってる自覚を持って積み重ねたものは、自分がどういったものを背負うか想像をつけているだろうが、気づいたら積み重ねてしまっているものは、その人に対してどのように働くのだろうな。途中から修正がしにくいものだったら、キツいだろうな。

 とすれば、修正がしやすい世の中になるのがいいのだろうか、そういう傾向になっているとは思うが、修正せざるをえない世の中になっているような気もする。簡単に人やものに対しての執着を捨てられる時代、というのも寂しい。
 なるべく自分が背負うものを認識した上で積み重ねていくのがいいのだろうな。戻れないことの方が多いのだから。

 

 だいぶ大きな枠組みで話したな。そのキャラ、継続して大丈夫?って話です。
 ただまぁ、それをしたことで得るものもあるよね。ただ失敗や、それに伴う修正は叩かれないでほしいな。広義で言う!!!

雨嫌い

考えることが多いから

 

・朝起きて、カーテンの向こうから水飛沫を上げる車の音が聞こえたり、壁の向こうから排水してるであろう音が聞こえてきたり、「あーもうこれ絶対雨振ってるじゃん」みたいな雨音が聞こえてくると気分が落ちる。雨が嫌いである。より詳細に言えば、雨に付随してくることが嫌いである。
 靴が汚れる、とか、服が濡れる、とか、髪がモワッてなる、とか、色々要因はあるのだけれど、一番大きい要因は「イラつく人を見ることになる」からである。

 

・傘のマナーが悪い人をよく見る。周りを確認せずに傘を開いたり、傘を地面と並行にして揺らしながら歩いたり。全世界の傘が折りたたみになればいいのに、くらい思ってる。その人に対して抱く感情が出来てしまう。「あぶなっ」とか「こいつ前しか目ぇついてねぇのか?!」とか。私もその内の一人。そしてそれ以上に、最近はツイッターでそういう「傘あぶないですよ」のイラつきが言語化されたものをよく見る。あれが苦手である。「あーやっぱりいるんだな」と思いつつ、コメント欄とか見ると「この人はイラつきに来てるのかしら...」と思う事が多い。ああいうのを見ると、なんかTV番組思い出す。なんだっけ「ざまあみろジャパン」みたいなやつ。全然思い出せない。自分がいかにイラつく世界に立ち入らないようにしてるかが非常によく分かる。イラつく人が多い世界には行きたくない。ので、イラつく要因はなるべく世界から無くなってほしい。まぁそうもいかないのだけれど。

 

・あと、傘を地面と並行にして歩いてる人を見たら直接「危ないっすよ」って言いたい。でも怖い。言った直後に「あぁ”? なんか文句あんのか?!」って殴られるかもしれないじゃん。不条理。

 加えて「この人なら言っても大丈夫そうかも....」と思い、言おうかなと考えるのは一瞬あれど、私が人によって言う、言わない、を考えている人間だ、というのが悲しくなってきたりする。「殴られない人には声をかける、殴られる人には声をかけない」って、なんか行動が統一されてないし。

 まぁ、事故は起こってないのだろうし結果オーライと言えばオーライかもしれないけど。でもさ、なんかさ、怖いじゃん。なんかあってからじゃ遅いし。ああいうときはどうするのがいいのだろうな。相手にとって、自分にとって。

 

・自分から見て気づかないこと、他人から見て気づくこと、逆もしかり。恥と間違いは晒しあって許し合って生活していくのは大事だったりする。自分が怒るには、相手から怒られることを覚悟してなければならない。
 相手から怒られたくないから、人は怒らなかったりするのか。知らん。苛ついてる人は見たくない!

一つにはまとめられない②

溜まったので書く。

 

①最近洗顔する時に泡立てのシャワシャワしたやつを使ってる。なんて言うのあれ。泡立てスポンジ? めちゃめちゃ泡立つ。「泡立つ=汚れを浮かす」って聞いたことあるけど、泡立てスポンジが適度に汚いわけじゃないよね?

 

②そのつながりで言えば、整髪料をつけた日の夜のシャンプー、一回目は全然泡立たない。ワンプッシュが勿体無いから1/5プッシュするようにした。節約できてるのかしら。

 

③最近久しぶりにコミュニケーションをとった人がいる。内面はきっとめちゃめちゃ生きるのが大変なのだろうけど、他人とのコミュニケーションはめちゃめちゃユーモアに富んでいる人だ。私、そういう人、超すごいと思ってる。

 

④最近、肉体的接触が許されてる人というのは、行為に限らず「言語以外のコミュニケーション手段を持ってる人なのだな」と思った。これについては、うまく言語化出来たら書きたいと思っている。

 

⑤上記と同時に「人(私)は、関わるほぼ全ての人とは、言語でしかコミュニケーションをとれないのだな」と思った。言語でコミュニケーションをとる、ということのいかに難しいことか。

 

⑥否、言語以外でコミュニケーションをとることもまぁ難しいよな。

 

⑦今月末にボーナスが出るらしいので、思い切って2~3年に1回くらいの高い買い物をした。いつも購入手続きをした瞬間から「買ってよかったのかな...」ってめちゃめちゃ後悔するタイプなのだけれど、後悔はあまりない。使う目的がはっきりしていたことと、閉塞感を打破してくれそうだったのが理由かもしれない。あと「私、これずっと欲しかったんだな」って買ってから気づいた。

 

⑧今回買ったものか、スターキャスターか迷ったのだけれど、昔知人に「あるものを大事に使え」と言われた。ギターを持ってたのでやめた。なので、ずっと持ってなくて、憧れていたものを買った。

 

⑨買う、ということは選択である。それを使えたお金で、何が出来たのか、とか考えちゃう。何が出来たのかしら。

 

⑩選択はいつだって怖い。選ばなかった選択肢が消える。消えても尚、選んだ選択肢を誇りに思えるように生活出来るだろうか。

表現は不健康

吉田兼好、漫画描きすぎ田中

 

・以前作曲をしている人にその旨を話した。「自分の中にあるものを創作物として出そうとすると、何かしら自分の見たくないこととか、自分の実力不足とかを痛感しやすい。でも自分の出したものが愛しくなってしまう。形に出来た時は嬉しくなってしまう。たまに自分の創作物が自分を助けてくれる時はあるけれど、大抵の場合はキツいことが多い。よって表現は不健康なのである。」という発言をした。結構共感された。なんかあれじゃん。嫌でも好きになっちゃう、みたいな感じ。未来では嫌な自分を表現出来たことにより、自分を変えられることもあったりするけれど、その瞬間は結構不健康だよねぇ。自分の表現の捉え方に依るんだろうけど。

 

・「曲=その人」とは全然思わないけれど、「曲がその人を含む」とは思っている。色々と見えてくるよね。その時の感情とか。記憶というより、記録。レコード。その時の自分をパッケージしている感覚。色んなことを思い出せる。


・「曲は聞くだけで記憶に留まることが出来る」と昔どこかで読んだことがある。特別な時とか、ある時期に聞いていた曲とかは、なんか色々思い出してしまう。「あの時こんなことしてたな」とか「この時あそこにいたな」とか「あぁ、この曲聞いた時こんな感情だったな」とか。足かせになったり、進む道の邪魔になる時も少なからずあるけれど、なんか過去に自身が確実にあの場に存在していたことを思い出すことが出来る。

 

・表現は不健康、というタイトルにしたが、最近はある程度適切に不健康である。適切な自己肯定感、適切な自己愛、適切な自己否定。そこまで深刻になりすぎず、きちんとユーモアを持って接していけてるような気がする。まぁ、考えの一つなんだけど。いい曲がかければ、もっと言えばいい生き方であればいいのだろうけれど。

 

・おまけ。最近知人から聞いてめちゃめちゃいい曲があった。「こんな表現をしたい」とめちゃめちゃ思った。「この曲が世界に産まれてくれてよかった」と思うくらいの曲だった。PVはよくわかんなかったです!

 

youtu.be

調整が効かないから揺る

バランスが上手くとれれば生活は多分難しくないよね。


・基本的に「自己肯定感は高い方が良い」と私は考えている。だって生きるの楽じゃん。
 でも、先日知人と話していた時に「自己肯定感が強いのも考え物」という話をした。

 

・曰く、性格難有りな方がいるらしい。そして、周りの人が優しく「これ大事だよ(だから直しなね)」みたいにやんわりと言っても、あんまり直らないらしい。
 加えて、「性格難有り」「直した方がいいこと」の内容が他人に対して気遣えない、みたいな行動らしい。極端に言うと「私間違ってないからなに言ってもいいよね?!」みたいな。自己肯定感が高いが故に、自分を変えようと思わない、というか。「自分大丈夫っしょ」って思ってるが故に、自分のことを変えない、というか。


 その人が直らないから、指摘する側も心労が絶えない、とのこと。
 今後その知人は、爆発するか、突き放すか、どういう対応をするのだろうな。聞いてて心配になった。

 

・コミュニケーションは相互の問題という側面が大きいので、どっちが良い悪いで決められるものはないが、まぁ、耐える方と主張する方だったら、耐える方がキツくなるのは非常に分かる。
 「私気遣ってるのに、なんであなたは気遣ってくれないの!」みたいな話にも繋がってくるよね。泥沼一直線!
 


・書いてて思ったけど自己肯定感っていうか、自己愛って言ってもいいかもしれない。
 
 自己肯定感=自己愛は成り立たないとは思うし、自己肯定感が低いのに自己愛が強い人もいたりするかもしれない。
 他人を許容するというのは「そのままのあなたでもいい(けど、そのままのあなただと、私はあなたから離れてしまう)」ってことと繋がってくる。
 
 他人から「これ直した方がいいよ」っていうのを「あなたを傷つけてしまった」という申し訳なさでボロボロになってしまう人を見ると「いや、これから直してくれればいいのに」とか思ってしまう。
 他人を完全に分かり合えない以上、どんな言葉をかければいいのか、分からなかったりする。
 上手く他人と付き合うより、上手く自分と付き合っていく方向に考えを変えた方がいいのかしら。
 
 適切な自己愛と自己肯定感があれば、加えて他者愛と他者肯定感がある人は、どんな人になるのかしら。
 マザーテレサがやべぇ奴と相まみえた時、どんな言動、行動をするのか、めちゃめちゃ気になる。

 

・いい感じの自己肯定感、自己愛を持っていれば、上手く自分のことを変えられるのだろうか。自己愛とか自己肯定感が強い人が、弱い人をどこかで苦しめるのだろうか。強く生きるのも考えものなのだろうな。いい感じに人と付き合っていきたいよな。相手によって自分を調整していきたいよね。

 低い人は上げる、高すぎる人はちょっとだけ下げる。えっ、むずくない? 無理しない!

人の声より自分の声を聞くのだ

「幸せってなんですかね」っていう台詞が最近見た映画にあった。「聞くな!」と答えたくなった。

 

・幸せは定義するより感じた方が早いものだろうし、人生浮き沈みあるのだし。考えることは多々あれど、何より、映画が恋愛の話だったから「恋愛で幸せを定義するようになると、他人に幸せを求めてるのだからキツイだろうなー」と思ったりもした。まぁ、他人に愛される、必要とされるっていう経験が出来る以上、人にとって恋愛が大きなファクターになりやすいのは分かるけど。

 

・登場人物が大体自分のことより相手のことを考えていた。
 自分のことを考える人もいたけど、その人はなんか終始「自分は幸せじゃないな」って考えることがなさそうだった。危うくないというか。そういえば、他のメインの登場人物、ほぼ危うい人だったな。なんか見てて「うわー! 不安定不安定!」ってずっと思ってた。

 相手のことを考える人は、自分のことをあまり考えてない、っていうのはまぁありえる話だと思う。自分のことを考えない人は、自分の声を聞くという時間が少なくなってしまう。そうすると、自分の声がだんだんと聞こえなくなってくる。自分がどうしたいのか、なにをしたいのか、とか。なにをすべきか、が他人前提になってしまったりする。(ベイビーステップでそこらへんすごい心に残る感じで描いてた気がする。)

 

 ああいう時、どうすれば自分の声聞こえるようになるんだろうね。難しいよね。

 

・色々書いたけど、見た映画は「愛がなんだ」です。なんか、色々言いたくなる映画でした。見た知人が「『良かった』で終わらせたくない」って言ってました。その通りだと思います。なんかこう、宇多田ヒカルみたいに言うと、「いつもあぶないことばかりしてるから どうしても気になっちゃう」です。ウーゥー、ラブトラップ!!!!!

久しぶりに会った人が想像とは違う変化をしていた時の感情を言語化させてくれ

自分にとってマイナス方向に変わっていた時とか、言語化出来ない。

別にそういう人が最近いた訳じゃないのだけれど。

 

●主に考えてしまうことは、
・勝手に想像していたのは申し訳ない
・でもあなた多分その方向に変化しない方が魅力的だった
・それも私が思っていたあなたの魅力だったのだな
 とか。
 勝手に想像して、期待しておいて、身勝手な話だよな。
 ただ、想像してしまうのも人として不思議なことではなかろう! と思っている。

 同時に、誰かからはそう思われてるんだろうなぁ、とも思ってもいる。

 

●「この感情を言語化したい」と思うことは多々ある。
 感情の言語化、簡単に言えば嬉しいとか楽しいとかは、目に見えないものを共通認識に仕立て上げているしかない、というのは周知の事実だと思う。
 例えば楽しさが単純な高揚感なのか、それとも切なさが混ざるものなのか、とか。それは個人によって違うものだったりする。
 だから、相手が楽しいって言ったのなら、その言葉を信じるしかないのだよな。
 加えて、私が楽しいって言ったのなら、それが気遣いだったとしても、相手には「楽しい」を信じてほしいよな。

 久しぶりに会った人が、想像とは違う変化をしていた時には、自分はどういう反応をしているだろうか。
 きっと戸惑いつつも、相手に久しぶりに会えた嬉しさで、テンションが上がってることと思う。
 相手には久しぶりに会ってテンションが上がってる、だけ伝わっていてほしいと願う。

 

●適切な言葉が見つからない、という話とは少し違う。まったく検討がつかない。新しい言葉を作るしかないのだろうか、と思う。
 誰か、この感情を共通認識出来る言葉を知っていたら教えてください。
 「〜〜現象」とか、横文字の名前とか、なんかありそうな気がする。