please_hitme

「ピンと来てくれ」の意です

言わなくていいコト

佐々木蔵之介めっちゃ好き…

 

・「知らない方がよかった!」なんて思うこと、私にはそうそうない。
 この歳まで生きてきて、いろんな人を見た。考え方に接して、経験も積んできた。
 結果、「知らない方がよかった」なんて思わなくなった。「そういうこともあるよねー」と思うからだ。
 それに、知ってたとしても、知らないフリは出来たりする。
 自分に感情の選択権があるのは、少し余裕が出来る。

 でも、言わなければいいことを言ってしまった後は、
 相手に感情の処理を強いてしまう。
 結果、「あー言わなくてよかったのになー」って思ったりする。


・最近、人と向き合おうとしている。
 結果、自分とも向き合うことにつながる。
 時々、相手と向き合ってたつもりが自分と向き合っていたことに気づいたりする。

 「これは言わなくてよかった」と、思う。
 「なぜこんなにも自分が相手に出す情報は面倒なのだろう」と、よく思う。
 「なぜ私の発言するタイミングが回ってきたのに、こんなことを言ってしまうのだろう」と本当によく思う。

 でも関係を築くには、なにか言わなければならなかったりする。
 コミュニケーションは聞くことが基本だが、聞くだけでは駄目だったりする。

 自分が相手に与える情報が適切だったか。
 内容は、言い方は、タイミングは、適切だったか。

 あちこちオードリーでピースの又吉さんが言ってたけど、自分の思ってることを普通に言うと、自分の感情より強く伝わってしまうことが多い。(違ったらごめん)
 相手の感情を想像し、自分の感情に向き合うのはとても疲れ、大変なことだったりする。
 行動とは違い、相手の気持ちはきちんと体験出来ない。だからこそ、相手への配慮と想像が必要になってきたりする。
 結果、しすぎると病む。


・「人と自分を分け隔てているのは肉体だけだから、自分の思ってることがちゃんとあれば伝わる。」ということを確か宇多田ヒカルが言っていた。
 自分の感情を定義せねばならない。それは非常に怖かったりする。
 時として人を傷つけるし、同様に自分も傷つけることにもつながる。

 人を大切にする、ということは自分の感情より相手の感情を優先することだ。それが果たして出来ているのだろうか。
 言わなくていいことを言った後に、きちんと言うべきことを言える未来が待っているのだろうか。
 言わなくていいことを言ってしまった相手へのフォローは、私に出来るのだろうか。もしくは私以外の誰かがしてくれるのだろうか。

 うまくコミュニケーションをとっていかねばならない。言うべきことを優先したい。
 だが言わなくていいことを思いついてしまう。スマートな頭を求めている。

 

・いや佐々木蔵之介めっちゃ好き…言うべきことしか言ってなかった…

最近「ここらへんの飲み屋知りませんか?」と声をかけられる

・都内在住である。約2年半になる。
 ここ半年で3回街中で声をかけられた。

 東京駅構内、池袋、渋谷である。


 共通点は男性二人。「関西から来た。飲み屋は無いか。」という問いかけだった。
 イヤホン&マスク装着早歩きの私になぜ声をかけるのだ、と思っている。

 コロナ禍でも飲みに行くことを包み隠さない姿勢だった。

 

「あそこらへんお店いっぱいありますよ」と質問に答えても満足せずに、
「具体的なお店無いですか」「出身どこですか」「東京来て長いですか」とコミュニケーションを試みてくる。
「話長いな」「早く解放してくれないかな」という態度をすると、「すみませんねぇ関西人なんで」と言ってくる。
 自身を「関西人」とタグ付けしている故、関西人に対しての偏見がつきそうで困る。

 

 あれはなんなのだろうか。
 私には関西人に声をかけられる要素があるように思えない。
 なので考えられることとしては、詐欺だと思っている。

 

 多分あの後コミュニケーションを取り続けたら、顔立ちの整ってる女性が来る。
 「今度一緒に飲みましょう」と言われ、仲良くさせられる。
 多分そのあと「最近仕事を無くして....」とかで20万円くらいひっぱられる。

 怖い。

 

 自身の損失というより、私がこれから出会う人の信用度初期値が下がりそう。

 初めて出会う人に対して「この人私に害を与えようとしている」と思って生活はしたくない。

 「自分がこうやって生きたい」から外れてしまうのが怖い。

 

・あと、詐欺とかそういうことを踏まえて今回の体験を考えると、

 最終的には「『こいつ、カモだ!』と思われた!」に行き着く。

 それはなんか腹立たしい。腹立たしい!

 

・卑屈にならなければ「この人ならコミュニケーションとってくれそう」と思われてる、と感じることは出来る。

 そうなれたらいいのだが、世の中には怖いこともあると知っている。

 しかも東京である。日本1人の母数が多く、色んな人がいる街である。

 色んな人がいるのだから、怖い人に会うことも少なくなかろう、と思う。

 (声かけてきたの関西人だ....)

 

 でも母数が多いってことは優しい人も多いってことになるのではないか。

 確かに私の職場、めちゃめちゃいい人多いわ。

 東京怖いってイメージ良くないな。偏見は好ましくない。

 

・偏見がつくような、安易なカテゴライズをしてしまうときがある。

 もう少し言うと「カテゴライズによって許されよう」と思ってしまうときがある。

 自身の人間性と向き合うことが大事だったりする。

 偏見と共に、そして自身の感情と共に生きるのは難しかったりする。

 

(「飲み屋どこですか?」の関西人の方、情報あったら連絡ください)

04:36,04:52

・夜明け頃に起きて何かする時は、「活動する」というより「動く」という表現が適切な気がする。

 目が最大まで開かないまま、現在時刻を認識する。
 脳が完全に立ち上がらないまま、のそのそと動く。
 昨日寝る前に出来なかった行動、その後悔を今の私が引き継いでいる。
 そして後悔を解消するために、のそのそと動く。

 

・電池が切れてしまっている携帯をケーブルに挿し、パソコンのディスプレイの電源を落とす。
 エアコンを切ろうとボタンを押す。点灯が消えない。
 3回目で「停止」ボタンを押してないことに気づく。正しいボタンを押して点灯が消える。
 
・布団は畳まず、洗面台に行く。
 乾かさずに寝た髪をさわる。手ぐしが通る。傷んでなくて安心する。
 口にモンダミンを含む。ゆすぐ。出す。
 化粧水をボトルからコットン、コットンから肌に移す。安物は顔にあてた後、繊維が残る。

 洗面台付近の窓からビルと空を見る。空は薄く柔く白と青が混ざる。
 頭の中で現在地点の地図をイメージする。
 「西から上ったお日さまが〜」を頭の中で歌い、太陽が昇る方向はベランダから見えることを認識する。

 

・ベランダに出る。
 鳥の鳴き声が大きく耳に入ってくる。どこかでセミが鳴いている。
 トラックがずっとアイドリングストップをしている。
 少し待って、太陽が昇る場所は家からだと建物で見れなさそうなことが分かる。

 朝起きたら洗濯機を回そう。
 歯医者の予約をしよう。
 ドライヤーを髪にあてよう。

 

・ベランダから部屋に移動する。
 携帯のバッテリーが回復している。5%と表示が出ている。
 現在時刻を確認する。計算が合っていれば16分違う。
 あと3時間後くらいすると、多分私はちゃんと目が覚めている。

 

 畳まなかった布団にもう一度入る。
 布団の中では朝が待っている。

運命を求めているの

求めてるんですよ

 

・生活をしていると色々な感情が芽生えるけど、扱いが困るような大きい感情を持つことは少なくなる。キツイし、取り扱いが大変だし。
 そして大きな感情を持つには大きな言葉が必要になる。それこそ「運命」みたいな言葉。
 割と長い人生の中で、本当に稀に「これは運命なんだな」って思う時がある。
 皆さんも体験したことがあると思うんですけど、あの時エモーショナルだよね。

 でも実際はそうならない。運命なんてそうそう出会えない。
 なので「運命にしたい!」って思ってしまう時がある。
 そして「運命にしたい」って思う時は2パターンある。

 

・1つ目は自分の過去を肯定したいパターンだ。
 「あの時はああなる運命だったんだ」と思って、自らの過去を納得するようにするパターン。だいたい心が不健康な印象がある。
 
 もう1つは自分の未来を信じたいパターンだ。
 「この選択は私の未来を豊かにしてくれる」と信じたい時とか。
 
・そして両方とも「自分の行動を信じる」ということに繋がると思う。
 加えてそういった際は、えてして自分の感情を過大解釈する。
 「私は本当に運命だった!!!」と、テンションを上げて話す。
 そして大概、運命にならない。

 私達はおそらく、自らの行動を疑わないことが幸せに必須条件となりうる。
 自分の行動に疑いを持ってしまったとしたら最後、もうその疑いが心にしこりのように留まることになる。

 疑いを持ったまま、生活せざるを得なくなる。それは厳しい。

 

・「あの時はあれでよかったのだ」と思えたら、もうそれだけで人生は成功しているように思う。
 何かを成すことはもちろん大事だったりはするが、それ以上に自己肯定感、言い換えれば自分の行動を「まぁいいっしょ」と思えることが人生では大事だったりする。

 

・運命は大きな言葉だが、大きな感情を伴うものではなかったりする。
 運命は、静かに、だが確実に、私たちの心に残るものだったりする。
 私達は、静かだが確実なものを求めている。

 

 (個人的な話をするが、私は大きく感情を動かすものを「運命」と呼べない質なのだな、と感じる。
  しかし、人の意思を介在させずに済む「それ」を運命と呼ぶのは、私には非常にしっくりくる。)

 

・あとずっと私はパルマフィオキーナが好きです。パルマフィオキーナは運命に近かった。
 だって手からビーム出したいじゃん。私は出したい。

そりゃ目に映るすべてのことはメッセージだろうけど

だろうけど

 

・本当に個人的な話で恐縮なのだが、私はちょっとだけ視力が悪い。裸眼だと車の運転が出来ないくらい。
 その為ずっと眼鏡をつけていたのだが、半年前くらいから視力がめっちゃ必要な時以外外すようにした。
 理由は「眼鏡がない状態で遠い場所を見れば視力が治る!」と聞いた為、自身で実験しようと思ったからである。


 あれから半年。全然視力がよくなってる気はしないのだけれど、他によかったことがある。
 視界からの情報が抑えられることだ。

 

 例を出すと、鏡を見ても不快感を覚えないようになる。
 私は肌が綺麗ではない。中学の時、顔のニキビが出来たのにケアせず、あまつさえ手でいじってしまったからだ。
 なので私は自分の顔を鏡で見たくない。中学の頃の私をハトムギ化粧水とニベアで殴りたくなる。
 そういったこともあり眼鏡をつけて自分の顔を見るとマジでテンションが下がるのだけど、裸眼で見るとあんまり気にならない程度になる。
 
 (こないだ呪術廻戦読んでたら「毛穴が開いてんぞ」って相手を煽るシーンがあったが、
  そもそも毛穴を気にする時点で顔は綺麗だと思ってる。)

 

・情報の何%が視覚に頼ってるんだっけ、確か1番多かったよね。
 眼鏡を外して、いかに視界から得ている情報が多いかを思い知った。
 同時に、視界に入れなくていい情報を入れているかに気づいた。

 

 朝道端で吐瀉物に気づくこともなく、
 話してる人の鼻毛を見つけてしまい声をかけようと迷うこともなく、
 顔を見た人ほぼ全員の肌がめちゃめちゃ綺麗に見える。
 
 よく見えていいこともあるけど、よく見えなくていいこともあったりする。
 見なくちゃいけないこともあるけど、見なくていいこともあったりする。

 

・見なくていいものを見てる人は、えてして人に優しくなかったりする。
 やっぱり優しさに包まれたい...けど包まれた分、誰かに負担がかかったりする。

 

 私が見なかった吐瀉物は、街ゆく人全員が見なかったら街が汚くなる、みたいなこともあるかもしれん。
 誰かがした粗相は、当人を含む誰かが尻拭いする必要があったりする。
 尻拭いを誰かにしてもらったら、今度は誰かの尻を拭うのが恩返しだったりする。
 
・最近友達が「頼って頼られて生きていこう」って言ってた。
 非常に明確でいい言葉だと思った。優しさに包まれた気がした。

私は母の命日を忘れてしまった

 12月2日、玄関のドアを開けた。そこまで寒くない日だった。外気を確かめるように大きく息を吐いた。想像した通り、吐いた息は白くならなかった。「12月でもまだ寒くないな」と考えた後、11月30日を、母の命日を忘れていたことに気づいた。

 

・母が亡くなり11年間、ずっと覚えていた日だった。

 私が母の命日を忘れていたことに気づいた際「母はとうとう私の日常からいなくなってしまった」と感じた。同時に、11年抱え続けてきた「母がいなくなった」という朧げな喪失感が、なにか違うもので埋まっているのを感じた。代わりに埋まったものは、今の私にとっての母以上に大切なものかもしれない。そうではないのかもしれない。でも確実に「母の死」というものが「母親はいない」というものに取って代わったのだった。

 初めて、私は母の死が私の日常に溶け込んだことを感じた。「私は母親が死んだ人間なんだ」という考えから「あ、私母親死んでるじゃん」という考え方に変わっていた。母が死んでいるという出来事が、自分の中で特別なことではなくなっていた。

 

・人を亡くした、という話を聞いたりする。亡くした人の話をしているのを聞いたりする。
 人を亡くすというのはおそらく特別なことだ。自分の思い出を作ってくれた人が亡くなるのだ。センセーショナルな話題でもある。気持ちが動きやすいものだったりする。

 でもありふれているのだ。生きていると普通に人を亡くすのだ。

 そして忘れるのだ。「人が死んだ後、他人の記憶から消えた時に二度目の死が訪れる」という言葉を聞いたことがある。あれは本当なんだな。自分が母の命日を思い出さなくなる人間になるなんて思ってもなかった。

 

・母がどういう人だったのか、幼い私では分かり損なった。そのことが今思うと酷く心残りなのだ。今会えて話をしたら、母がどういうキャラクターなのか分かるのだろうか。母のことをより理解出来るのだろうか。

 今の父と私の関係のように、母を母としてだけではなく、人としても接することが出来るのだろうか。

 母のことをより知っていれば、忘れないくらいにたくさん接することが出来れば、生涯ずっと、母の死を悼むことが出来たのだろうか。

 

・人が死ぬということは、非常に面倒だったりする。自分の感情に向き合わなければいけない。誰かの感情が邪魔をしてくることもある。人には人の感情がある。悲しいとか苦しいとか、決め付けられたりするものではなかったりする。

 私の感情は、人から勝手に定義され、解釈される。逆に私は人の感情を定義し、解釈したりする。人が関わるということは面倒だ。解釈を誘発するような表現をしてしまうこともある。意図しないように感情を捉えられることもある。

 

・今日は母の日らしい。さらに言えば、昨日は母の誕生日だったらしい。
 「人が死んだ」という話を聞くのは苦手だ。反応に困る。
 相手の感情も、自分の感情とも向き合わなくてはいけない。
 自分が死なずに生きているということを、嫌でも自覚させられる。


 言えることはもっとある。

 でもそれはここでは言わない方がいい気がするので言わないこととする。

 

 私は今日も普通に生きている。

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気を遣われると嬉しい

気って遣われる、であってるよね。

 

・「この人私のことわかってくれる」って思った時ってあります? 私はそんなにない。
 各個人生き方や考えてきたこと、加えて経験も違う。なのでそれは当たり前だとも思う。

 

 でも稀に「わかってくれた!」って思う時がある。

 それが飛び跳ねるくらい嬉しかったりする。
 こないだあった。その時の話をする。

 

・平日、仕事をしている時に自分の進め方に対して懐疑心を覚えた。
 そして「あれ、そもそも方向性合ってるのか?」と袋小路に突入した。
 なので、いつも仕事の面倒を見てくれる会社の上司にアドバイスを求めた。
 話をすると私に対して「よく考えるね」と言ってくれる人だった。

 

「今回のプロジェクトに対してこのようにアプローチをしてます。ただちょっとうまくいくか分からなくなってきました。上の方から見てどうですか? より良い方法はもちろん、そもそも私の考えてるアプローチでいいのかご意見伺いたいです。」
 的な聞き方をした。なんかうまく言葉にならなくて、2~3分くらい話した。長いなと自分でも思った。

 

 上司は少し間を開けた。
 そして「これは大丈夫、次はこっちを考えること。オッケー?」という話をされた。

 

 想像していたより、あっけない回答だった。30秒から1分くらいだったと思う。情報がとても少なかった。

 しかしそれ故に「気を遣われた! 適切に話をされた!」と感じた。

 

 普段私に対して「よく考えるね」と言ってくれてる人なので、色々考えないように言葉を絞ってくれたのだな、と思った。

 それこそ泣きそうなくらいに嬉しかった。「うっわー! うっわー!」ってテンション上がった。


・会話をしていて、相手に伝わってないな、と不安になると情報を重ねてしまうことがある。
 人は誤解をする生き物だったり、話したい生き物だったりする。

 

 「相手に適切なことだけを話す」というのがどれだけ難しいことか、今までの生活で泣いちゃうくらい実感してきた人もいると思う。

 

 それに、会話をしていると「相手に対して気を遣おう」と考えてる人と、「自分は気を遣ってる」と思いたくて話をしている人がいる。

 それも人らしいのだけれど適切に気を遣われないと疲れてしまうこともあったりする。

 

・ちゃんと考えはじめると、吐いちゃうくらい多種多様な人生がある。それぞれの人に背景がある。
 その中で「今自分が会話してる相手にちゃんと気を遣う」というのは相当に難しいことだと感じる。

 

 上司の1分弱の言葉から「私のことを慮って接してくれたのだな」と強く感じた。
 「気を遣って発言するのは、人の理解に繋がるんだな」と気づけた。

 

 何より、「気を遣われると嬉しい」と感じたのは初めてだった。

 

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会社の用事で大阪に行った。その時に天王寺動物園で撮った写真。また行きたい。