please_hitme

「ピンと来てくれ」の意です

強い言葉ばかりだ

全然弱く見えない

 

・ぼーっとネットサーフィンしていたりなんとなく散歩していると、「強いな」と思う言葉を見かける。

 ※さっきamazonで「頭にきてもアホとは闘うな」って本を見た3秒後にこの文章を書いている。

  何年か前、人に勧められて読んだが全く覚えていない。

 

 強い言葉を使った方が見る人もダメージを負うため、よく使われるなと思う。

 自己啓発本とかビジネス書とかそういうのばっかりだし。

 見るたびに「強いなー」とか「強くなりたいんだなー」と思う。

 ※強い言葉に対して「自分のことを正しいと思っているから言えるよな」という言い方もできるが、

 これもまた強い言葉だなと思う。

 

 

・他人のことを批判するような言葉を見ると「批判される側の人間の気持ちを蔑ろにしているな」と思う。

 批判される側もそれぞれ自分の立場があったりする。

 ※他人から共感されるか、許されるかはともかく。

 

 あと、自分に非がある時の相手の強い言葉は、

 「私に迷惑かけたのだからこれくらいの暴言は許せよ」みたいな気持ちを感じて苦手だったりする。

 

 言葉なんて大抵の場合誰かの受け売りのケースが多いんだし、

 自分が常にどのような言葉に接しているかでその人の言葉の強さが変わってくると感じている。

 強い言葉を使ってる人は、常に強い言葉に接している気がする。

 

 強い言葉はカロリーが高いし、胃もたれするから苦手である。

 「若い内は大丈夫」という点でもそっくりな気がしないでもない。

 もうそろそろロースカツはキツくなるのかしら。※こないだとんかつあおき食べた美味しかった

 

 

・正しいことをしている実感や、成長しているという実感が無いからか、強い言葉に敏感になってきた。

 いろんな人を傷つけて来た結果、過去より優しい人間になっている気がするが、

 実力みたいなものが伴ってないような気がしている。

 このままだと昔より優しくなった人で終わってしまうのではないかという、

 漠然とした不安に苛まれている。

 

 

・先述した本は自分がターゲットではなく、

 「アホとは闘うな」という強い言葉が響く層に向けて売っているのだろうな、と思う。

 個人的に人を「アホ」と呼びたくない為、

 私も人を「アホ」と呼べるくらい正しくなりたい…とは思わないが、

 もう少し自分で「これくらいやったから私は大丈夫だろう」みたいな気持ちが欲しい。

 

 誰かに「私がアホだ」と思われている気がする。

 話してて「この人今私のことアホだと思ったな」とか思う。

 「誰かが『こいつはアホだから戦わないでおこう』と思うんだろうな」と思う。

 きっつー!!

 

・強い言葉を使う人は、言い切っているからか自信がある人に見える。

 自信がない人は強い言葉を受け、その人の言葉を借りて強い人になりつつあるケースもある。

 

 迷ってる人は、迷ってない他人の強い言葉を借りて生きるのもアリだし、

 迷ってる中で自分の言葉を見つけ出す、みたいなのもアリだな、と感じる。

 

・みたいなことを色々考えるが、行動した方がいいなと最近めちゃ思う。

 

 怖くても進まなくては行けない時がある。強い言葉だな。

 怖くても進まなくては行けない時があったりなかったりする。面倒臭いな。

 

 感情って面倒臭い時もあるよね。それが人だったりするよね。

 余裕があると面倒臭いことを愛しいと思えたりするよ。

新曲出したんすよ

出したんすよ

 

「私語厳禁」

歌:Synthesizer V Sakiライト版を使用
作詞/作曲/編曲:pleasehitme → https://twitter.com/please_hitme

youtu.be

 

以下裏話ーーーーーー

・イントロからずっと出てくるピアノは同居人が弾いてくれた。

 MIDIデータで提供してくれたので一部加工した。

 なので9割私が作ってるけど、とっかかりは同居人。

 曲を出すにあたり、同居人に「クレジットする?」って聞いたら「いらない」って言ってた。

 あと「フリー素材」とも言ってた。

 遠慮なく使うことにした。

 

 ※同居人に対しては「あなた多分お金とか欲しくなるタイプだから、簡単に『フリー素材だよ』とか言わない方がいいのに」と勝手に思っている。

 「でも自分で稼ぐだろうな」とも思っている。

 To 同居人 クレジットつけたくなったら言ってね。

 

・はじめてボカロを触ってみた。

 自分の曲が人に歌ってもらわなくても正確な音程で歌詞付きで再生されるのってめっちゃいいな。

 

・社会との関わりを、同時に人との関わりを以前より考えた結果、書けた歌詞だと思う。

 ※色んな人と関わる中で直接的な関わりは歌詞内にある部分もない部分もある。

 

 ただ、人に許されて、且つ諦められて生きているな、とよく思う。

 

 あと、この曲に限らないが歌詞を書くたびに、

 「この歌詞書けてよかったな」と思える部分があるのは幸せだな、と思う。

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これからも適当に曲を書くので、よかったら聞いてください。

メイカヨユー

やっほー、おひさ。

 

・相手に話をしたい時はたいてい自分に余裕がない。

 すると、話相手は余裕がない自分をよく見ることになる。

 故に話し相手が自分のことを「余裕がない人」だと思ってしまうことがある。

 だからこそ余裕がある時に雑談をしておく必要がある。会話の絶対値を増やす必要がある。

 

 他にも、会話をしなくちゃいけない時は、人に話さなくちゃいけない状況が多い。

 「これうまくいきませんでした」とかそういった類のこと。

 だから余裕がある時に「これうまくいきました」っていうのを伝えておいた方がいい場合が多い。

 

・っていうのを気づいたんだけど、こういうのどっかのコミュニケーション特化のビジネス書に書いてありそう。

 

 自分の気づきは大切にしたいけど、それを相手に話してしまうと、相手が「それみんな知ってるよ」とか「誰かが言ってたよ」とか、そういう反応を返す場合がある。

 そういう時「あ、そうなんだ!」って思う自分と「私が気づいたっていう話をしてるんだ!」って思う自分がいる。

 

 やっと自分が言語化出来た話を、他人がスマートに表現しているを見るのは「あー!私気づいたのに!」って思ったりする。

 

・当たり前のことに気づかないのも人間だったりするし、知ってる話題が出た時に「それ知ってる」って言いたくなるのも人間だったりする。

 「自分が気づいた」ってことを話した時に「それ私も気づいた」って言う人もいたりする。

 「私も気づいた」を悪意なく、「私も同じこと思ってたよ」って事実だけで言う人もいたりする。

 それ以外にも、主人公を自分にしたがる側面がある人もいたりする。他のパターンもあると思う。

 

・話は変わるが、なんかのインタビューの動画を見た。

 司会者が登壇者に話を振って一通り聞き終わったあと、少しの静寂のあとに「お話ありがとうございます」って言ってた。

 話をして「これ以上広げられないな、話題を一段落させよう」って判断したように聞こえた。

 相槌だけでは物足りないし、広げられないし、ってときにお礼言うのいいな、って思った。

 実生活でも使えそうだな、と思った。っていうかよく使ってるかもしれない。

 

・上記は既に身内には話したので、多少自身に余裕はある。

 が、なんとなく備忘録として残しておこうと思った。

 

 最近気づいたことのメモをとってないことが増えた。

 考えていたことを忘れてしまっている場合が多い。多分忘れっぽい。

 考えたことは残しておくべきだし、書いとくべきだな、と今は思っている。

 意図せずに誰かを傷つけないといいな、と思いながら書いている。
 人を傷つけるのは、人を思いやる余裕がない時だったりする。
 余裕を作るように生活するのは、やっぱり難しかったりする。

 

また適当に書きます。みんな元気ー? 

言わなくていいコト

佐々木蔵之介めっちゃ好き…

 

・「知らない方がよかった!」なんて思うこと、私にはそうそうない。
 この歳まで生きてきて、いろんな人を見た。考え方に接して、経験も積んできた。
 結果、「知らない方がよかった」なんて思わなくなった。「そういうこともあるよねー」と思うからだ。
 それに、知ってたとしても、知らないフリは出来たりする。
 自分に感情の選択権があるのは、少し余裕が出来る。

 でも、言わなければいいことを言ってしまった後は、
 相手に感情の処理を強いてしまう。
 結果、「あー言わなくてよかったのになー」って思ったりする。


・最近、人と向き合おうとしている。
 結果、自分とも向き合うことにつながる。
 時々、相手と向き合ってたつもりが自分と向き合っていたことに気づいたりする。

 「これは言わなくてよかった」と、思う。
 「なぜこんなにも自分が相手に出す情報は面倒なのだろう」と、よく思う。
 「なぜ私の発言するタイミングが回ってきたのに、こんなことを言ってしまうのだろう」と本当によく思う。

 でも関係を築くには、なにか言わなければならなかったりする。
 コミュニケーションは聞くことが基本だが、聞くだけでは駄目だったりする。

 自分が相手に与える情報が適切だったか。
 内容は、言い方は、タイミングは、適切だったか。

 あちこちオードリーでピースの又吉さんが言ってたけど、自分の思ってることを普通に言うと、自分の感情より強く伝わってしまうことが多い。(違ったらごめん)
 相手の感情を想像し、自分の感情に向き合うのはとても疲れ、大変なことだったりする。
 行動とは違い、相手の気持ちはきちんと体験出来ない。だからこそ、相手への配慮と想像が必要になってきたりする。
 結果、しすぎると病む。


・「人と自分を分け隔てているのは肉体だけだから、自分の思ってることがちゃんとあれば伝わる。」ということを確か宇多田ヒカルが言っていた。
 自分の感情を定義せねばならない。それは非常に怖かったりする。
 時として人を傷つけるし、同様に自分も傷つけることにもつながる。

 人を大切にする、ということは自分の感情より相手の感情を優先することだ。それが果たして出来ているのだろうか。
 言わなくていいことを言った後に、きちんと言うべきことを言える未来が待っているのだろうか。
 言わなくていいことを言ってしまった相手へのフォローは、私に出来るのだろうか。もしくは私以外の誰かがしてくれるのだろうか。

 うまくコミュニケーションをとっていかねばならない。言うべきことを優先したい。
 だが言わなくていいことを思いついてしまう。スマートな頭を求めている。

 

・いや佐々木蔵之介めっちゃ好き…言うべきことしか言ってなかった…

最近「ここらへんの飲み屋知りませんか?」と声をかけられる

・都内在住である。約2年半になる。
 ここ半年で3回街中で声をかけられた。

 東京駅構内、池袋、渋谷である。


 共通点は男性二人。「関西から来た。飲み屋は無いか。」という問いかけだった。
 イヤホン&マスク装着早歩きの私になぜ声をかけるのだ、と思っている。

 コロナ禍でも飲みに行くことを包み隠さない姿勢だった。

 

「あそこらへんお店いっぱいありますよ」と質問に答えても満足せずに、
「具体的なお店無いですか」「出身どこですか」「東京来て長いですか」とコミュニケーションを試みてくる。
「話長いな」「早く解放してくれないかな」という態度をすると、「すみませんねぇ関西人なんで」と言ってくる。
 自身を「関西人」とタグ付けしている故、関西人に対しての偏見がつきそうで困る。

 

 あれはなんなのだろうか。
 私には関西人に声をかけられる要素があるように思えない。
 なので考えられることとしては、詐欺だと思っている。

 

 多分あの後コミュニケーションを取り続けたら、顔立ちの整ってる女性が来る。
 「今度一緒に飲みましょう」と言われ、仲良くさせられる。
 多分そのあと「最近仕事を無くして....」とかで20万円くらいひっぱられる。

 怖い。

 

 自身の損失というより、私がこれから出会う人の信用度初期値が下がりそう。

 初めて出会う人に対して「この人私に害を与えようとしている」と思って生活はしたくない。

 「自分がこうやって生きたい」から外れてしまうのが怖い。

 

・あと、詐欺とかそういうことを踏まえて今回の体験を考えると、

 最終的には「『こいつ、カモだ!』と思われた!」に行き着く。

 それはなんか腹立たしい。腹立たしい!

 

・卑屈にならなければ「この人ならコミュニケーションとってくれそう」と思われてる、と感じることは出来る。

 そうなれたらいいのだが、世の中には怖いこともあると知っている。

 しかも東京である。日本1人の母数が多く、色んな人がいる街である。

 色んな人がいるのだから、怖い人に会うことも少なくなかろう、と思う。

 (声かけてきたの関西人だ....)

 

 でも母数が多いってことは優しい人も多いってことになるのではないか。

 確かに私の職場、めちゃめちゃいい人多いわ。

 東京怖いってイメージ良くないな。偏見は好ましくない。

 

・偏見がつくような、安易なカテゴライズをしてしまうときがある。

 もう少し言うと「カテゴライズによって許されよう」と思ってしまうときがある。

 自身の人間性と向き合うことが大事だったりする。

 偏見と共に、そして自身の感情と共に生きるのは難しかったりする。

 

(「飲み屋どこですか?」の関西人の方、情報あったら連絡ください)

04:36,04:52

・夜明け頃に起きて何かする時は、「活動する」というより「動く」という表現が適切な気がする。

 目が最大まで開かないまま、現在時刻を認識する。
 脳が完全に立ち上がらないまま、のそのそと動く。
 昨日寝る前に出来なかった行動、その後悔を今の私が引き継いでいる。
 そして後悔を解消するために、のそのそと動く。

 

・電池が切れてしまっている携帯をケーブルに挿し、パソコンのディスプレイの電源を落とす。
 エアコンを切ろうとボタンを押す。点灯が消えない。
 3回目で「停止」ボタンを押してないことに気づく。正しいボタンを押して点灯が消える。
 
・布団は畳まず、洗面台に行く。
 乾かさずに寝た髪をさわる。手ぐしが通る。傷んでなくて安心する。
 口にモンダミンを含む。ゆすぐ。出す。
 化粧水をボトルからコットン、コットンから肌に移す。安物は顔にあてた後、繊維が残る。

 洗面台付近の窓からビルと空を見る。空は薄く柔く白と青が混ざる。
 頭の中で現在地点の地図をイメージする。
 「西から上ったお日さまが〜」を頭の中で歌い、太陽が昇る方向はベランダから見えることを認識する。

 

・ベランダに出る。
 鳥の鳴き声が大きく耳に入ってくる。どこかでセミが鳴いている。
 トラックがずっとアイドリングストップをしている。
 少し待って、太陽が昇る場所は家からだと建物で見れなさそうなことが分かる。

 朝起きたら洗濯機を回そう。
 歯医者の予約をしよう。
 ドライヤーを髪にあてよう。

 

・ベランダから部屋に移動する。
 携帯のバッテリーが回復している。5%と表示が出ている。
 現在時刻を確認する。計算が合っていれば16分違う。
 あと3時間後くらいすると、多分私はちゃんと目が覚めている。

 

 畳まなかった布団にもう一度入る。
 布団の中では朝が待っている。

運命を求めているの

求めてるんですよ

 

・生活をしていると色々な感情が芽生えるけど、扱いが困るような大きい感情を持つことは少なくなる。キツイし、取り扱いが大変だし。
 そして大きな感情を持つには大きな言葉が必要になる。それこそ「運命」みたいな言葉。
 割と長い人生の中で、本当に稀に「これは運命なんだな」って思う時がある。
 皆さんも体験したことがあると思うんですけど、あの時エモーショナルだよね。

 でも実際はそうならない。運命なんてそうそう出会えない。
 なので「運命にしたい!」って思ってしまう時がある。
 そして「運命にしたい」って思う時は2パターンある。

 

・1つ目は自分の過去を肯定したいパターンだ。
 「あの時はああなる運命だったんだ」と思って、自らの過去を納得するようにするパターン。だいたい心が不健康な印象がある。
 
 もう1つは自分の未来を信じたいパターンだ。
 「この選択は私の未来を豊かにしてくれる」と信じたい時とか。
 
・そして両方とも「自分の行動を信じる」ということに繋がると思う。
 加えてそういった際は、えてして自分の感情を過大解釈する。
 「私は本当に運命だった!!!」と、テンションを上げて話す。
 そして大概、運命にならない。

 私達はおそらく、自らの行動を疑わないことが幸せに必須条件となりうる。
 自分の行動に疑いを持ってしまったとしたら最後、もうその疑いが心にしこりのように留まることになる。

 疑いを持ったまま、生活せざるを得なくなる。それは厳しい。

 

・「あの時はあれでよかったのだ」と思えたら、もうそれだけで人生は成功しているように思う。
 何かを成すことはもちろん大事だったりはするが、それ以上に自己肯定感、言い換えれば自分の行動を「まぁいいっしょ」と思えることが人生では大事だったりする。

 

・運命は大きな言葉だが、大きな感情を伴うものではなかったりする。
 運命は、静かに、だが確実に、私たちの心に残るものだったりする。
 私達は、静かだが確実なものを求めている。

 

 (個人的な話をするが、私は大きく感情を動かすものを「運命」と呼べない質なのだな、と感じる。
  しかし、人の意思を介在させずに済む「それ」を運命と呼ぶのは、私には非常にしっくりくる。)

 

・あとずっと私はパルマフィオキーナが好きです。パルマフィオキーナは運命に近かった。
 だって手からビーム出したいじゃん。私は出したい。