私は母の命日を忘れてしまった
12月2日、玄関のドアを開けた。そこまで寒くない日だった。外気を確かめるように大きく息を吐いた。想像した通り、吐いた息は白くならなかった。「12月でもまだ寒くないな」と考えた後、11月30日を、母の命日を忘れていたことに気づいた。
・母が亡くなり11年間、ずっと覚えていた日だった。
私が母の命日を忘れていたことに気づいた際「母はとうとう私の日常からいなくなってしまった」と感じた。同時に、11年抱え続けてきた「母がいなくなった」という朧げな喪失感が、なにか違うもので埋まっているのを感じた。代わりに埋まったものは、今の私にとっての母以上に大切なものかもしれない。そうではないのかもしれない。でも確実に「母の死」というものが「母親はいない」というものに取って代わったのだった。
初めて、私は母の死が私の日常に溶け込んだことを感じた。「私は母親が死んだ人間なんだ」という考えから「あ、私母親死んでるじゃん」という考え方に変わっていた。母が死んでいるという出来事が、自分の中で特別なことではなくなっていた。
・人を亡くした、という話を聞いたりする。亡くした人の話をしているのを聞いたりする。
人を亡くすというのはおそらく特別なことだ。自分の思い出を作ってくれた人が亡くなるのだ。センセーショナルな話題でもある。気持ちが動きやすいものだったりする。
でもありふれているのだ。生きていると普通に人を亡くすのだ。
そして忘れるのだ。「人が死んだ後、他人の記憶から消えた時に二度目の死が訪れる」という言葉を聞いたことがある。あれは本当なんだな。自分が母の命日を思い出さなくなる人間になるなんて思ってもなかった。
・母がどういう人だったのか、幼い私では分かり損なった。そのことが今思うと酷く心残りなのだ。今会えて話をしたら、母がどういうキャラクターなのか分かるのだろうか。母のことをより理解出来るのだろうか。
今の父と私の関係のように、母を母としてだけではなく、人としても接することが出来るのだろうか。
母のことをより知っていれば、忘れないくらいにたくさん接することが出来れば、生涯ずっと、母の死を悼むことが出来たのだろうか。
・人が死ぬということは、非常に面倒だったりする。自分の感情に向き合わなければいけない。誰かの感情が邪魔をしてくることもある。人には人の感情がある。悲しいとか苦しいとか、決め付けられたりするものではなかったりする。
私の感情は、人から勝手に定義され、解釈される。逆に私は人の感情を定義し、解釈したりする。人が関わるということは面倒だ。解釈を誘発するような表現をしてしまうこともある。意図しないように感情を捉えられることもある。
・今日は母の日らしい。さらに言えば、昨日は母の誕生日だったらしい。
「人が死んだ」という話を聞くのは苦手だ。反応に困る。
相手の感情も、自分の感情とも向き合わなくてはいけない。
自分が死なずに生きているということを、嫌でも自覚させられる。
言えることはもっとある。
でもそれはここでは言わない方がいい気がするので言わないこととする。
私は今日も普通に生きている。