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「ピンと来てくれ」の意です

私は君のことを知らない

「いくら経験しても、解釈でしかないのだろうな」と思う。

 

・生活を積み重ねると「あぁ、今この人は私の過去のこの感情に似ているのかな」とか思ったりする。前に感じた感情を、相手に当てはめて考えたりする。感情の共有ってやつ。「分かる〜」のやつ。

 感情を相手に当てはめて考えると、人との繋がりが感じられたりする。色々な感情を経験していた方が、そういった意味でも相手に対しての解釈がしやすくなる。視野は狭くなったり広くなったりするけれど。「私の感情簡単に理解しようと思ってんじゃないわよ!」的なこと。しちゃうよねー。

 

・感情を経験すると同時に、行為の経験をすることで生活に差し色が加えられる時がある。

 「君の手首の匂いを嗅ぎたい」みたいな歌詞を読んだ。「なんで手首なんだろうな」って思ってたけど、あれは香水の匂いなんだな。最近香水に接する機会があって、始めてわかった。

 加えて言うと、手首の匂いを嗅いでいる「私」は「手首の匂い=香水」と認識していなさそうだな。「私」と「君」側で経験に差がありそうなことを感じて、めちゃくちゃ切なくなってしまうな。

 創作物に触れていると、割と香水を使う人が出てくるのだな、と思ったりする。この人は何を積み重ねて、香水を自分の体につけるようになったのだろうな。

 

・「この人は何を積み重ねてきたのだろう」という人がいる。
 自分と違う行為の経験をしていたり、自分の経験してきた感情とは別レイヤーの感情を持っていそうな人がいる。

 自分も相手も違う人間なのだから、人とわかりあえる時なんてそうそうないのは分かっているけれど、でも同時に、触れ合っちゃうように感じちゃう一瞬があったりする。
 でも、自分と同じような行為の経験をしても、抱く感情が違う時がある。事実。

 

・自分だけがコミュニケーションの齟齬を感じる時、相手だけが感じる時、両者が感じる時、多々あるだろうけれど、何よりも「感じてほしかった時に感じられなかった」時が一番切ないよな。「私は君のことを知らないんだ」って改めて感じちゃうというか、「分かっている」と思っていただけの自分に気づくというか。驕りとか、エゴとか、色んな事に気づいちゃう時があったりする。

 

 あと、コミュニケーションの齟齬は双方の責任なのに、謝りたくなっちゃう時あるよな。相手がちょっと乱暴になった時とか。

 その感情は、分かり合えない他人の感情の中でも結構分かる気がするよ。「乱暴にさせてごめんな」みたいなこと思うよな。

 あと、「多分乱暴な自分嫌いなのに、私との会話でその乱暴を出してしまってごめんな」と謝りたくなってしまうよな。君は私のことを知らないんだ。

 この感情、多分相手は知らないのだろうな、でも言ったら野暮になるよな。世の中には野暮なことが多いよな。

 

P.S.この曲です!! 「午後」は上半期ベスト1です!!
https://www.youtube.com/watch?v=tflBLxwCWb8

君が変わらないことを前提にしてる

ってパターンが多いと思う

 

・「他人と自分は違う人間なんだな」って、生活を積み重ねていく度に思ったりする。そして「他人を変えよう」と思うことがいかに大変か、言い換えれば、いかに面倒かを実感する。


 それ故に生活を積み重ねていく上で「相手に期待しすぎない」という優しさとも怠惰とも諦めとも呼べる処世術を手にしてしまった。時と場合と立場により受け取り方が変わるので、「良い悪い」や「好き嫌い」で決められるものではなかったりする。それ故に人間は矛盾を抱えながら生きていくしかないのだろうな、と漠然と思ったりもする。否、主語が大きい。特定の誰かの話だ。色んな人いるしな。全国民にアンケートとった訳じゃない。でも矛盾と向き合う人が多いのは確かな気がする。知らんけど。

 

・他人を見限ったり、意思の疎通を諦めたり、自分の考えを推し進めようとするのは、相手が変わらないことを前提としている場合が多い。
 自分が変わることが出来る以上、相手にだって変わる可能性がある。でも、自分のことしか分からないから、人が変わることを前提とはしてないのだ。
 他人が変わると信じている人は「すげーな」って思うけど、他人が変わらないと信じている人は「寂しいな」って若干思ったりもする。この考えは未来で変わるかもしれない。

 

・変わることは良いことでもあるし、悪いことでもあったりする。誰にとってか、という目線でも、時期にとって、という目線でも。
 最終的にどうなるのがいいことなのか、着地点はどこなのかを正確に設定しないと、諸々見失っていく気がする。
 変わらないものは、今まであった変わる条件を跳ね返してこれた、という意味で強いのだろうか。変わらないものを変えることは大変なのだな。同時に、それを変えようと行動する人は強かったりするのだろうか。「変わらない」という事実を保つ強度が高い、というか。

 

・すごく漠然とした話をするけれど、世の中は他人を変えた人がスポットが当たりやすかったりする。
 自分を変えた人も、諸々背負ってるのだ。そういう人にもスポットが当たってほしかったりする。
 ...漠然としてる!

羽広げれば悲しみは消える

嘘こけ!

 

・人間、常に色々なことを考えてると思う。「今日の夕飯どうしよーかなー」とか。「あの映画見てなかったなー」とか。「あの時どんな言動をするのが正解だったんだろおうなー」とか。断言出来ないよな。自分の頭しかわからないのだから。もっというと、自分の頭も良くわからないしな。
 みんな何考えてるんだろうな。「何も考えてない」って言う人の頭の中を覗いてみたいよ。本当かい。確かに「もっとあなた考えた方が良いのでは...」と思う人もいるけれど、それ以上に「あなた本当にそれで何も考えてないの...」と思う人も多かったりする。すげぇーってよく思う。そのパーソナリティ、俺にも取り入れたい。どうすればいいのか。一緒にいる以外に出来ることはあるのだろうか。

 

・色々な経験が増えてきて「自分が考えてるのだから、相手も違うことを考えてるのだろう」と思うことが出来るようになった。同時自分の中で積み重ねた思考を、急に相手にぶつけてしまうのは、酷だということにも気づいた。相手にも思考が必要なのだ。「変なこと言ってごめんね」と謝りたくなってしまう。でもそのテンションで始めてしまった以上、もうそれで進むしかなかったりする。

 

・表面化するテンションが適切な人がめちゃめちゃ羨ましい。会話の中で余分なことを考えず、枝分かれせず、話のルートが適切な人。会話をする時のテンションが一定な人。人との会話に、コミュニケーションに、相手という存在に、興味を持てる人。同時に、そのフリが非常に上手い人。相槌が適切なタイミングな人。
 どう上手くやれば、日常会話という絶対数が多く、常に意識をしなければいけない、普段の行動が出やすいところで、うまい具合に変化させていくことが出来るのであろうか。目的がある会話も難しいけれど、日常会話で目的がブレた時ほど難しいことはない。イレギュラーも起こるし。

 

・もっと自由に話したくなったりする。今まで生きることとは「幸せになる」というのがメインテーマだったように思っていた。分解して「上機嫌に生きる」だと思っていた。でも「自由に生きる」というのもメインテーマになりうるのだな。「自由に生きる」を分解すると何になるのだろうか。「気にしなくなる」だろうか。「リスクを背負える」だろうか。「悲しみがなくなる」だろうか。そりゃ翼欲しくなるわ!

必然性が足りない

いつだって足りない

 

・人と生きていく上で「必然性」って結構大事だったりする。人にものを頼む時は「あなたにやってほしい」ということに加えて「あなたでなくてはいけない理由」が大事だったりする。

 それを導く方法としては、ゴールからの逆算がテクニックとしてあったりする。

 でも、えてして生活はゴールが見えなかったり、ゴールが見えていたとしても、そこからスタートへの道筋が上手く建てられなかったりする。さらには途中でイレギュラーも起こる。ゴールへ進んでいく途中で選択肢が増える。その選択肢は、よりよいゴールに到達したりするケースも多いが、そう見えて実は悪いゴールに到達するようなものだったりする。

 そうなってくると、必然性がどんどん揺らいでしまう。「だって未来変わるし....」といった具合に。そうなってくると長期スパンのことほど、計画立てが難しいのは当然だったりする。

 経験を積んだ結果、相手を説得でき、何より自分を説得する必然性は、どんどん足りなくなってしまう。皮肉。

 

・選択肢が多すぎてしまう、自分で絞り込む、もしくは他人に絞り込んでもらう必要がある。例えば、「あなたに向いている、もしくはあなたに適しているのはこれですよ」とか言ってほしくなる。それが信頼に足る人だったらなおさら。そしたら自分で自身を持てるし、自身を説得出来る。

 「自分が何をしたいか」で行動を決められるほど、「したいこと」と「向いていること」はイコールではなかったりするので、身勝手には生きられなかったりする。身勝手に生活すること、それに付随することに対して、相応の失敗をしてきてしまった。もう学ぶ時だ、と思ったりする。

 

・必然性はいつだって足りない。直感は強い。相手にそれ以上突っ込まれないから。自分もそれ以上突っ込めないから。

 判断基準としての直感は、あったら便利だったりする。最初から考えずに出来る天才だったり、「したいこと」と「向いていること」が直結している稀有な人ではないのなら、考えて考えて、結果考えなくてもできるようになるプロセスだったり、自分を説得する為の必然性を作り出す経験が必要である。人生は長いのか、私達はその判断が必要なタイミングまでに間に合うのか。

三重に行った

「あージュゴン見に行こー」って思って三重に行ってきた。

なんでも日本で飼育されてる水族館は三重にしかないらしい。贅沢の三重。

 

以下写真。

 

どこの駅から行ったのか記録したのに、記録になってなかった

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鳥羽駅ついたらなんかすごいのあった

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ドラクエ7だったら仕掛けがある

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呪われてるのか

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この世界観ジョーズで見た

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シンクロしてた

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全身入ればいいのに

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骨と一緒に展示されるのはシュールだ

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想像よりジュゴンは小さかった

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以上。

言葉を発せど噛み合わない

行動という本名とは

 

・「その人が何を言ってるかより、何をやってるか、で判断すべき」ってことはよく言われることだと思う。

 言動なぞ、立場や状況や年齢によって変わっていくものなのだから、あまり参考にしない方がいいと思ってる。大体、言葉も行動も信用ならなかったりする。自分の及ぶ範囲の言動で影響があること、無いことがいくつも重なった結果、状況が形成されるのだから、最終的には何が起こっても運命だと思うしかないのだろう。なので自分が後悔しない道を選ぶことに尽きるのだろうな、とは思う。

 人生は積み重ねるものだったりするので、年を重ねると自分が後悔する傾向がわかったりする。それに対して対応策を打てたら「よっしゃ」となる。同時に対応策を打てなかった場合は「人らしいな」と思う。

 マイナスに働くことが多い状況を「人らしいな」と思うのは、人は矛盾を抱えていきるもの、という考えからだと思っている。「成長」という言葉は、「矛盾を抱えて生きる」というイメージから遠ざかってしまう気がするので、苦手に感じる。

 個人的な話だけれど、私は歳を重ねるたびに生活が切なくなってしまうよ。楽しさと悲しみが同居している感覚があるよ。あなたはどうだい。

 

・言動は、他人からの見てギャップに大きく影響するだろうな、とは思う。

 例えばその人が「ビッグマウス&仕事めちゃ出来る」だったら「おおー」ってなるだろうし、「ビッグマウス&仕事全然出来ない」的な感じだと「えー」ってなる。

 ただ同時に「『何も出来ない』と常に言う&仕事全然出来ない」って人は「あぁ、自己評価と合ってるのね」となっている。

 言動と行動、ズレがあったら他人が戸惑う、っていう言い方が正しいのだろうか。

 常に自己評価は周りとずらさないように生きていたいけれど、自己評価が周りとずれてしまうことも人らしかったりするよね。大変だなー。

 

・あ、あんま関係ないんですけど、今週金曜日ライブです。詳細は私のツイッターにて。

笑顔不快

あぁ果てしのない 笑顔不快

 

・正直語呂とオマージュで決めた部分があるので、そんなにめちゃめちゃ不快な訳ではないのだけれど、自分の笑顔を見ると萎える。普段鏡では真顔の自分しか見てないからかしら。
 例えば、知人と話してて、ふとした瞬間に自分が笑ってる顔が鏡に写ってるとめちゃめちゃ萎える。他にも、集合写真で自分の笑顔を見ると、超萎える。スーパーで買った10枚入りの大葉の5枚くらいが黒くなってたときくらい萎える。だから写真は真顔で撮られるに限る。

 ついでに言えば「笑顔が人を幸せにする」なんてことあるはずない、と心から思っている。ほら、笑顔が怖い人とか、笑顔の裏でなんか思ってそうな人とか、色々いません? 私は時々「めちゃめちゃこの人に今気を使わせてるんだろうな...」とか思ったりする。

 

・「私の言動で相手にこういう気分になってもらいたい」みたいなことを思う時があるが、得てして自分の顔や声など、自分を構成する要素だと、それが叶わないことが多かったりする。後天的なものでカバーをするしかないのだろうな、と思ったりする。でも、後天的なものって得てして身につけるの難しいよね。

 自分のことを演じてくれる人が欲しい、せめて「萎える」という感情を私が抱かなくていいようになりたい。抱いたらめんどくさいし。
 自分で自分のイメージを具現化出来たらいいのだけれど、自分ではイメージの60%くらいしか表現出来なかったりする。
 あと、曲でもそうだけど得てして他人に手渡した方が良くなったりする。その分考えなくてはいけないことも増えるが、それ以上にバックが大きいことはある。

 本人の代わりに日常の言動や行動を代行してくれるサービス無いかしら。

 

・めちゃめちゃ顔面偏差値が高くて、声がめちゃめちゃ透る知人がいる。相手の作ってる表情や言動を受け取った後、私が頭で処理するのがスムースに出来るので「この人みたいに笑えたらなー」と思ったりする。声を活かす仕事をしている。

 印象的な発言がある。私はずっと知人をいい声だな、と思っていたのだけれど、声を活かす仕事につこうと努力し始めた際に「私は天才ではないから、先人たちがノウハウを残してくれているのがありがたい」ということを言っていた。
 最近久しぶりに会ったところ、声の性質を言語化出来るようになっていた。「喉から出てる」とか「鼻から出てる」とか。(多分もっと専門的なことを言えるのだろうけれど、私のレベルに合わせて喋ってくれているのだろうな、と思った。性格もスマートだな)

 自分の才覚を考慮し、努力をし続けている人の積み重ねが見れた。私が知人に憧れる理由の一つだった。

 

・年と経験を重ねていくと練度が上がり、上手くいくことはあったりする。そうなれるのだろうか。
 ほら、aikoも今の方が磨きかかって綺麗。歌詞は「もっと」の二番、曲では「格好いいな」が一番好きです!