please_hitme

「ピンと来てくれ」の意です

踊らされたとて気付かない

ダンスは上手く踊れない。

 

・会話をしていると「今気を使われてる」とか「今相手はテクニックで会話をしている」と思う時がある。「今相手は私を気持ち良く喋らせてくれてるのだ...」とか感じる時。あるよね。

 しかし気づくのと同時に「この場面は気持ちよく喋らされておかなくては...」と思ってしまう。気付かないフリをして、相手に甘える場面が多い。関係性にもよるけど「相手が気を使ってくれるのだから、私も気を使おう」という思考をするから。
 うわー、相手が気を使ってることには気づきたくないよのうー。

 

 気を使う、使われるということは悪いことではないのは重々承知しているけれど、「私はあなたにとって、気を使わなくてはいけないと思われてる人なんだ」とか「多分私があなたのことを考えているより、この人は私に興味ないんだろうな」とか諸々、気づいちゃうのがちょっと悲しいんだよな。

 

・「気を使われてる」ということに対して「気づいても尚、それを受け取る」ということを覚えたい。
 加えて、安易に「気づいちゃった」と言わないことを覚えたとしても、使う場面を限らなくてはいけない。それをきちんと消化していないと、どこかで「私気づいてるんだよ...」という気持ちでいっぱいになって、どっかでそのことを言いたい欲が爆発する気がするから頻繁に用いれない。よね。
 でもさ、時々ちゃんと相手が本当に気を使われず反応してる話が出来る、面白い人いるじゃん。すごいよね。喋りは人間の能力の一つに過ぎないけれど、多分人生での比重でかいよね。すげぇー。

 

・なんか「誰かに誘導されても、それに気付かない」という選択を考える。気づけない、気づいたとしても気づいてない振り、両方ともある。
 でも出来るなら、誘導先をプラスアルファにして相手に返してあげたい。「誘導してよかった!」とか思ってもらえたら楽しそう。能力値を伸ばせる部分は多々あるけれど、そういう所にステータス振りたいよね。

 

 でも他にステータス振っちゃうのが人なんだよな。「一日中寝れる能力」とか。
 それも一興!

傷ついたとて伝えない

相手に負担を与えるからかもしれないから。


・「人の言動で傷がつく」ってことは、非常によくある話だと思う。それがどんな状況であれ、どんな言動をしていたとして、人と人が関わる以上、それは普通の話のように思う。
 例えば、会話だったら、単に時間を費やすための会話や、その人とコミュニケーションをとる為の会話、会話を成立させるというゲームのような会話、自分の意思や思ってることを伝えるという手段での会話。そのどれもが人を傷つける手段にはなり得る。けれど「傷つきました」という内容の話は、どんな会話であれ非常に扱いに困る。相手を傷つけてしまう可能性が高いから。自分の中での正しさを相手にぶつける必要があるから。「人を傷つけたい」という自分に自覚的になってしまうから。
 何より、相手が冷静になってくれない場合が多いから。相手の意図もあるだろうし、それを察さないといけないし、それを聞かなくてはいけない。自らが傷ついて、あまり冷静でいられない中で。


・単に事実を指摘しようとしても、「あなたがした行動で、自分が傷ついた。あなたにこういう意図があったかもしれない。でもそれは私には察することしかできない。」とかそこまで考えて発言しないといけない。加えて、相手にも依るけれど、そこからの返答によっては「言い訳」と捉えてしまったりする。「あなたはそこまで考えていなかったはずだ」とか。「私はここまで考えて発言しているのに、なぜあなたはそのことを分かってくれないんだ」とか。大抵そういう時は、「人が自分とは違う人間で、違う考えを持っていて、神経を使う部分が異なる」という点を自分が踏まえられてない場合が多い。自分が平常でいられない。
 そもそも自分の心が乱されている中で、自分の意見を伝えたあとの相手の返答って、相手の後出しジャンケンのようなものだし。

 加えて「心が乱されている中での発言は相手を必要以上に傷つける」と分かっていると、一度場をやり過ごすことがある。そしてある程度落ち着いてきた中でその傷ついた旨を指摘すると「なんでその時言ってくれなかったの」とかって思ったりする。「その時言ったらあなたに必要以上に感情を出してしまうんだ」と思ったりする。すれ違うねー、人って。


・傷ついたとしても、伝えるのはなんか難しい。どれだけユーモアで自分の発言を塗ろうとしても、濡れなかった、透けている部分が見える。「ユーモアで隠す」という行為で、自分が未熟だから。さらに、傷ついたとしても、伝えないのはなんか悲しい。「傷ついた」と言う時点で相手に向き合ってることは、大人になってから分かるからだ。言わない、という選択肢は、相手に対してというより自分に向き合うことになるよね。


・人は元来孤独なものだし、人より自分と向き合う方が正解なのかも。
 自分と向き合うから傷ついたことを伝えない、という行動は、相手にとってもそう解釈してもらえるのだろうか。そのためには傷ついてることを相手に気づかれないようにする必要が出てくる。...むずくない?! 伝えよう!

嫌いになれど見捨てない

似て非なるものだと認識している。

 

・人と接すると、色々なことが起こる。「こう受け取ってほしい」と思って発言したことが、違う受け取り方をされる、とか「あっっ別にいいんですけど、そうやって解釈するんですね!」とか。行き違い。
 その中で「あっこの人ちょっと苦手かも...」とか思う。人に多くを求めちゃう時、あるよね。
 でも、それと見捨てるは話がまた違う、とも思ってる。見捨てるって言葉は、多分強い言葉だと思う。だから、テンションとしてはその言葉が適切ではないように思えるけれど、事実としては見捨てていることがある。同義語で、見限った、とかそういう言い方でも良いかもしれない。
(言葉を使う時のテンションと、その言葉の意味が食い違って違和感になる時ってありますよね。「貴様」とか「期待してない」とか)

 

・なんかこう「今私は、この人を見捨てた」って感じる時があると思うんですよ。相互理解をしようと思わなくなった時とか、この人に対して諦めがついた時とか。もっと言うと、自分の行動は相手を嫌いになるためにしていて、相手が気づいてないことを知っていて、相手が気づいてくれることを望んでるフリをして、相手が気づかないことを分かっていて、自分は(嫌われるとか、批判されるとかの)リスクを背負ってまで伝える気はなくて、自分が描いていた通りに相手が気づかなかったことに安心して、とか。諸々。そういう時には、「私は、この人のことを見捨てたんだ」と思う。
 それが良いことか悪いことかは知らない。自分と合わない人を認識して、縁を切る為の一手段かもしれないし、人を自分の中で見捨てたくらいで自分の尊厳が変わるわけでもあるまい。相手の尊厳を貶めている訳でもない。私もしたことがある。ただ事実として、そういう自分はあまり好きになれない。

 

・人を嫌いになるのは当然だし、合う合わないはもちろんある。
 ただどれだけ私は人を見捨てずにいられるだろう。それ以上にどれだけ人から見捨てられずにいれるだろう。
 見捨てる記憶は、なるべく少なくあってほしい。見捨てられる記憶なんて、怖い怖い。嫌いになれど見捨てないでくれ!

一つにはまとめられない①

考えてたこと。

 

①キャプテンマーベル、立ち上がるシーンで頭でaikoのキラキラのサビが流れてきた。そうやって悲しい日を越えてきた〜、雰囲気が急にポップ〜

 

②ティモシーシャラメ、コールミーバイユアネームの時のラストシーンでも思ったけど、本当にいい顔をしてる。ずっと見てられる顔をしてる。

 

③「最近~~ことありました?」って聞いて、返答してもらった後、それが返ってくると(「君は?」とか)「あっ、気を使わせちゃった」って思う。まぁあったから話したんだけど。

 

錦糸町ナイトサバイブ、めっちゃ面白い、全然野暮じゃない。めちゃいい漫画。適切に続いてくれ。

 

⑤D.I.YってDo It Yourselfの略なんだな。

 

⑥職場の昼休憩時間、星野源の夜の国勢調査のBGMが流れた。ちゃー、ちゃー、ちゃー。ちゃらららら(なんか声入る)

 

⑦先日仙台に行った。駅中で食べた牛タンが全然美味しくなかった。炭感が強かった。ちょっと高いの食べたのに。松島で食べた牛タン、ねぎしで食べた牛タンの方がよほど牛タンの味がした。悲しい。最近牛タンが好き。

 

⑧っていうか「炭火焼き」って美味しい? 「炭で焼きました!」感強くない? 普通に焼いた方が美味しくない? 遠赤外線効果? 俺が良い炭火焼き食べてないだけ? 知らん!

 

⑨あ、でもさわやかは美味しい。好き。

 

⑩最近ストロングゼロ飲んだ。やばい。あれは駄目。

 

書いて思ったけど、これ、気分的にはあれに似てる。

スクリーンショットで下書きを撮って呟くやつ。

また適当にやる。

 

P.S.「とるに足らない」と書いていた部分があった。私の感想はとるに足らないことだけれど、ティモシー・シャラメの顔や錦糸町ナイトサバイブはとるに足らなくない。から少し変えた。ニュアンス上の問題。20190421

正解は大体その場で考えつかない

いつもいつも思う。

 

・「人見知りの人は誰かと話した後、脳内で反省会をする」という言葉をどこかで聞いた。その言葉を踏まえるのであれば、私もあなたも多分人見知りであろう。(決めつける)
 比較的考えてしまうことは「あの言葉は多分、自分の考えを表すのに正解ではないかった」である。後になってその言葉が思い浮かぶと、「この言葉がなんで出てこなかったんだろう」ということである。恥ずかしさ、失敗したという感情より「なんで会話が終わった今になって、よりよい選択肢が出てくるんだ!」という後悔の感情が出てくる。
 相手がもし、発言を誤解してしまっていたら、もし意図していない所で傷つけていたら、みたいなことを考えちゃう。あー、あーー。
 まぁ同時に、人間関係は誤解や傷つき傷つかれが当たり前だとも思うのだけれど。多いと疲れちゃうけどね。自分の感情を正確に言語化出来たとて、相手に伝わるかはわからないけれど。なるべくスムースな意思疎通が出来ることに越したことはないけど。

 

・リーガルハイのシーズン1第1輪で印象的な台詞がある。「あの場で言えていたらな!」である。「うわー! めっちゃ腹立つけど思う!」と強く感じる。あの場で言えていたらなー!!
 正解をその場で出せる頻度は比較的少ない。今後積み重ねた会話の数で精度がどんどん上がってくるのかしら。知人にも思い浮かぶ。感情の言語化が出来る人、相手を傷つけない発言をする人。すごいなと思う。純粋に憧れる。同時に言語化してくれない人も気になっちゃう。口下手な人も愛しく思えてしまう。
 会話をしてる相手は、脳内反省会をしているのだろうか。もしそうなら、何を考えているのだろうか。
 「あの発言は違ったなー、あの場で言えていたらなー」とか思ってるのであろうか。えー、思ってるのかな。

 

・ただ正解をその場で出せないからこそ、人との会話は楽しかったりする。
 今度気になるあの人に、自分の発言をどれくらい正解だと思ってるか聞いてみようと思う。でもこの話題、正解かしら。

愛しいことは大体悲しい

古典もRADも多分そう言ってる。

 

・会話をしていると、「この人と距離が縮まっている気がする」とか思う時がある。同時に「この人は距離を縮めてくれている」と思う時がある。
 以前「この人と距離が縮まっている気がする」と思っていたことの大多数は、「私がこの人に対して(一方的に)距離を縮めているのだ」だと気づいた。相手からの心の距離は多分変わってないのに、自分からの距離だけが変わっていたのに気づいた。今更だなーって思う。自分と同じことを相手が背負ってくれてるなんてこと、そうそうあるはずないのにな。そう思っちゃうんだよな。

 

・考えてみれば当たり前だと思う。私が相手に心を開いているのに、相手が私に心を開いてくれないことを。同時に、それによって相手が自分と適切な距離を保つように接してくれていることを。
 でも、当たり前だと思うことと同時に、悲しいと感じてしまう。子供みたいだ。相手が距離を近づけてくれたとしても、関係がただ深まるとは限らないのにな。自分だって引いちゃうことがあるのにな。

 

・話は少し変わるが気分が良いと歌う。用事が楽しかった後の帰り道、色々と抱えてたものが一段落した時、考えなくてはいけないことが落ち着いた時。旅行先で予定外に素敵なことに出会った時。歌う。子供みたいだなと思う。こないだ普通に人が入ってた電車の中でふと歌ってしまい、一緒に乗っていた人に「歌うな」と言われた。自分のことを子供みたいだなと思った。言葉が可愛いな。自分のことをガキみたいだな、と思った。これだと乱暴だな。難しいな。実際に小学生の時とか歌ってたな。

 以前のことを思い出す時は、大体愛しくて悲しくなってしまう。ノスタルジーってやつ。多分。

 

・ノスタルジーを苦しくても感じてしまうのは、多分認めたいからだ。色々と頑張っていたこと、そして意図せずとも培ってしまった経験、そこから得た自分とか。変わらなかった部分も多い自分とか。

 捨てられたら楽なのだろうか。今よりも要領も悪く、経験も浅く、考えが浅はかで、上手く人と付き合えなくて、非常に苦しかった過去を愛しく思わなくなったら、楽なのだろうか。陳腐な表現かもしれないが「豊かだ」と言えることが出来るのであろうか。知らん。

 

・楽しいものより、悲しいものの方がが愛しくなってしまう。なんか、不健康だな、と思う。

 もっと、楽しいものに愛しいという感情を抱きたい。よね。愛楽。キラキラネームみたい。

言語化出来ない

大した問題じゃない。

 

・他人が自分の考えを言うとき、その内容をあまり信用しないようにしてる。というより、「現段階ではそう思ってるのだな」くらいにしか思わないようにしてる。
 恋愛話を聞いた後、そんなに時間が経ってないのに相手に新しい恋人が出来ていた、とか。「えっあなた先日『今の彼女のこと、めっちゃ好きなんだよね...』とか言ってませんでした?」って思ったりとか。ありません?

 

・考えとか思考は、事実と違って解釈が出来るし、人に因って同じ行動をしていても「なぜその行動をしたか」は違ったりする。
 例えば、自分が散々スムースにことが進むように考え、紆余曲折を経てした行動を、他人がものの数秒でしていたりする。「えっあなたなんでそんなすぐ出来るの...天才...」と思うことがある。でも得てして「なんでそれがすぐ出来たんですか?」って聞くと「えっ分かんない」って言われるパターンが多い。
 本人も言語化出来ないところで、自分とは違う思考で動いている。
 ここでの問題は、言語化出来ない、というより、同じ行動をした際に費やした時間のコストである。
 時間を使ったとか、行われた事実とかの方が、言語化出来ないことに比べれば見るべきなのだろうな、と思ったりする。考えがスマートな人、いいなー。

 

・それに、自分の言葉ってなんか、疑っちゃいません? 「あの時ああ言ったはいいけど、本当に自分、そう思ってるのかな...」みたいな。
 自分の考えこそ、わからなかったりするし、言語化出来たとしても、「えっあの言い方違うかも...」みたいなループに突入することがあったりする。
 相手を混乱させちゃう時もあるから、なるべく自分の考えは変わらない方がいいのだろうな、とは思うけど。まぁそう上手くいかないよねぇーーー。

 

・「男子三日会わざれば刮目して見よ」って言葉もあるし、人は変わるものなのだろうなぁ、と思う。
 自分の思ってることとは違うことを言ってしまう時もある。
 自分の言ったことを反芻して改めて自分の考えに気づくときもある。
 自分の言葉によって今までの考えが迷ってしまったりすることもある。
 そもそもの話、自分の考えなんてもともと言葉になってない。
 だから、言語化出来ないなんて、大した問題じゃない。
 ただ、スムースに言語化出来て、それを疑わずに受け入れられるものだったら、嬉しい。

 

・でも考えが変わる人は不確実性がある、というのも事実だったりする。
 こういうの、難しいよねーーーー、まぁ楽しいんだけどさ。