表現は不健康

吉田兼好、漫画描きすぎ田中

 

・以前作曲をしている人にその旨を話した。「自分の中にあるものを創作物として出そうとすると、何かしら自分の見たくないこととか、自分の実力不足とかを痛感しやすい。でも自分の出したものが愛しくなってしまう。形に出来た時は嬉しくなってしまう。たまに自分の創作物が自分を助けてくれる時はあるけれど、大抵の場合はキツいことが多い。よって表現は不健康なのである。」という発言をした。結構共感された。なんかあれじゃん。嫌でも好きになっちゃう、みたいな感じ。未来では嫌な自分を表現出来たことにより、自分を変えられることもあったりするけれど、その瞬間は結構不健康だよねぇ。自分の表現の捉え方に依るんだろうけど。

 

・「曲=その人」とは全然思わないけれど、「曲がその人を含む」とは思っている。色々と見えてくるよね。その時の感情とか。記憶というより、記録。レコード。その時の自分をパッケージしている感覚。色んなことを思い出せる。


・「曲は聞くだけで記憶に留まることが出来る」と昔どこかで読んだことがある。特別な時とか、ある時期に聞いていた曲とかは、なんか色々思い出してしまう。「あの時こんなことしてたな」とか「この時あそこにいたな」とか「あぁ、この曲聞いた時こんな感情だったな」とか。足かせになったり、進む道の邪魔になる時も少なからずあるけれど、なんか過去に自身が確実にあの場に存在していたことを思い出すことが出来る。

 

・表現は不健康、というタイトルにしたが、最近はある程度適切に不健康である。適切な自己肯定感、適切な自己愛、適切な自己否定。そこまで深刻になりすぎず、きちんとユーモアを持って接していけてるような気がする。まぁ、考えの一つなんだけど。いい曲がかければ、もっと言えばいい生き方であればいいのだろうけれど。

 

・おまけ。最近知人から聞いてめちゃめちゃいい曲があった。「こんな表現をしたい」とめちゃめちゃ思った。「この曲が世界に産まれてくれてよかった」と思うくらいの曲だった。PVはよくわかんなかったです!

 

youtu.be

調整が効かないから揺る

バランスが上手くとれれば生活は多分難しくないよね。


・基本的に「自己肯定感は高い方が良い」と私は考えている。だって生きるの楽じゃん。
 でも、先日知人と話していた時に「自己肯定感が強いのも考え物」という話をした。

 

・曰く、性格難有りな方がいるらしい。そして、周りの人が優しく「これ大事だよ(だから直しなね)」みたいにやんわりと言っても、あんまり直らないらしい。
 加えて、「性格難有り」「直した方がいいこと」の内容が他人に対して気遣えない、みたいな行動らしい。極端に言うと「私間違ってないからなに言ってもいいよね?!」みたいな。自己肯定感が高いが故に、自分を変えようと思わない、というか。「自分大丈夫っしょ」って思ってるが故に、自分のことを変えない、というか。


 その人が直らないから、指摘する側も心労が絶えない、とのこと。
 今後その知人は、爆発するか、突き放すか、どういう対応をするのだろうな。聞いてて心配になった。

 

・コミュニケーションは相互の問題という側面が大きいので、どっちが良い悪いで決められるものはないが、まぁ、耐える方と主張する方だったら、耐える方がキツくなるのは非常に分かる。
 「私気遣ってるのに、なんであなたは気遣ってくれないの!」みたいな話にも繋がってくるよね。泥沼一直線!
 


・書いてて思ったけど自己肯定感っていうか、自己愛って言ってもいいかもしれない。
 
 自己肯定感=自己愛は成り立たないとは思うし、自己肯定感が低いのに自己愛が強い人もいたりするかもしれない。
 他人を許容するというのは「そのままのあなたでもいい(けど、そのままのあなただと、私はあなたから離れてしまう)」ってことと繋がってくる。
 
 他人から「これ直した方がいいよ」っていうのを「あなたを傷つけてしまった」という申し訳なさでボロボロになってしまう人を見ると「いや、これから直してくれればいいのに」とか思ってしまう。
 他人を完全に分かり合えない以上、どんな言葉をかければいいのか、分からなかったりする。
 上手く他人と付き合うより、上手く自分と付き合っていく方向に考えを変えた方がいいのかしら。
 
 適切な自己愛と自己肯定感があれば、加えて他者愛と他者肯定感がある人は、どんな人になるのかしら。
 マザーテレサがやべぇ奴と相まみえた時、どんな言動、行動をするのか、めちゃめちゃ気になる。

 

・いい感じの自己肯定感、自己愛を持っていれば、上手く自分のことを変えられるのだろうか。自己愛とか自己肯定感が強い人が、弱い人をどこかで苦しめるのだろうか。強く生きるのも考えものなのだろうな。いい感じに人と付き合っていきたいよな。相手によって自分を調整していきたいよね。

 低い人は上げる、高すぎる人はちょっとだけ下げる。えっ、むずくない? 無理しない!

調整が効かないから揺る

バランスが上手くとれれば生活は多分難しくないよね。


・基本的に「自己肯定感は高い方が良い」と私は考えている。だって生きるの楽じゃん。
 でも、先日知人と話していた時に「自己肯定感が強いのも考え物」という話をした。

 

・曰く、性格難有りな方がいるらしい。そして、周りの人が優しく「これ大事だよ(だから直しなね)」みたいにやんわりと言っても、あんまり直らないらしい。
 加えて、「性格難有り」「直した方がいいこと」の内容が他人に対して気遣えない、みたいな行動らしい。極端に言うと「私間違ってないからなに言ってもいいよね?!」みたいな。自己肯定感が高いが故に、自分を変えようと思わない、というか。「自分大丈夫っしょ」って思ってるが故に、自分のことを変えない、というか。


 その人が直らないから、指摘する側も心労が絶えない、とのこと。
 今後その知人は、爆発するか、突き放すか、どういう対応をするのだろうな。聞いてて心配になった。

 

・コミュニケーションは相互の問題という側面が大きいので、どっちが良い悪いで決められるものはないが、まぁ、耐える方と主張する方だったら、耐える方がキツくなるのは非常に分かる。
 「私気遣ってるのに、なんであなたは気遣ってくれないの!」みたいな話にも繋がってくるよね。泥沼一直線!
 


・書いてて思ったけど自己肯定感っていうか、自己愛って言ってもいいかもしれない。
 
 自己肯定感=自己愛は成り立たないとは思うし、自己肯定感が低いのに自己愛が強い人もいたりするかもしれない。
 他人を許容するというのは「そのままのあなたでもいい(けど、そのままのあなただと、私はあなたから離れてしまう)」ってことと繋がってくる。
 
 他人から「これ直した方がいいよ」っていうのを「あなたを傷つけてしまった」という申し訳なさでボロボロになってしまう人を見ると「いや、これから直してくれればいいのに」とか思ってしまう。
 他人を完全に分かり合えない以上、どんな言葉をかければいいのか、分からなかったりする。
 上手く他人と付き合うより、上手く自分と付き合っていく方向に考えを変えた方がいいのかしら。
 
 適切な自己愛と自己肯定感があれば、加えて他者愛と他者肯定感がある人は、どんな人になるのかしら。
 マザーテレサがやべぇ奴と相まみえた時、どんな言動、行動をするのか、めちゃめちゃ気になる。

 

・いい感じの自己肯定感、自己愛を持っていれば、上手く自分のことを変えられるのだろうか。自己愛とか自己肯定感が強い人が、弱い人をどこかで苦しめるのだろうか。強く生きるのも考えものなのだろうな。いい感じに人と付き合っていきたいよな。相手によって自分を調整していきたいよね。

 低い人は上げる、高すぎる人はちょっとだけ下げる。えっ、むずくない? 無理しない!

人の声より自分の声を聞くのだ

「幸せってなんですかね」っていう台詞が最近見た映画にあった。「聞くな!」と答えたくなった。

 

・幸せは定義するより感じた方が早いものだろうし、人生浮き沈みあるのだし。考えることは多々あれど、何より、映画が恋愛の話だったから「恋愛で幸せを定義するようになると、他人に幸せを求めてるのだからキツイだろうなー」と思ったりもした。まぁ、他人に愛される、必要とされるっていう経験が出来る以上、人にとって恋愛が大きなファクターになりやすいのは分かるけど。

 

・登場人物が大体自分のことより相手のことを考えていた。
 自分のことを考える人もいたけど、その人はなんか終始「自分は幸せじゃないな」って考えることがなさそうだった。危うくないというか。そういえば、他のメインの登場人物、ほぼ危うい人だったな。なんか見てて「うわー! 不安定不安定!」ってずっと思ってた。

 相手のことを考える人は、自分のことをあまり考えてない、っていうのはまぁありえる話だと思う。自分のことを考えない人は、自分の声を聞くという時間が少なくなってしまう。そうすると、自分の声がだんだんと聞こえなくなってくる。自分がどうしたいのか、なにをしたいのか、とか。なにをすべきか、が他人前提になってしまったりする。(ベイビーステップでそこらへんすごい心に残る感じで描いてた気がする。)

 

 ああいう時、どうすれば自分の声聞こえるようになるんだろうね。難しいよね。

 

・色々書いたけど、見た映画は「愛がなんだ」です。なんか、色々言いたくなる映画でした。見た知人が「『良かった』で終わらせたくない」って言ってました。その通りだと思います。なんかこう、宇多田ヒカルみたいに言うと、「いつもあぶないことばかりしてるから どうしても気になっちゃう」です。ウーゥー、ラブトラップ!!!!!

久しぶりに会った人が想像とは違う変化をしていた時の感情を言語化させてくれ

自分にとってマイナス方向に変わっていた時とか、言語化出来ない。

別にそういう人が最近いた訳じゃないのだけれど。

 

●主に考えてしまうことは、
・勝手に想像していたのは申し訳ない
・でもあなた多分その方向に変化しない方が魅力的だった
・それも私が思っていたあなたの魅力だったのだな
 とか。
 勝手に想像して、期待しておいて、身勝手な話だよな。
 ただ、想像してしまうのも人として不思議なことではなかろう! と思っている。

 同時に、誰かからはそう思われてるんだろうなぁ、とも思ってもいる。

 

●「この感情を言語化したい」と思うことは多々ある。
 感情の言語化、簡単に言えば嬉しいとか楽しいとかは、目に見えないものを共通認識に仕立て上げているしかない、というのは周知の事実だと思う。
 例えば楽しさが単純な高揚感なのか、それとも切なさが混ざるものなのか、とか。それは個人によって違うものだったりする。
 だから、相手が楽しいって言ったのなら、その言葉を信じるしかないのだよな。
 加えて、私が楽しいって言ったのなら、それが気遣いだったとしても、相手には「楽しい」を信じてほしいよな。

 久しぶりに会った人が、想像とは違う変化をしていた時には、自分はどういう反応をしているだろうか。
 きっと戸惑いつつも、相手に久しぶりに会えた嬉しさで、テンションが上がってることと思う。
 相手には久しぶりに会ってテンションが上がってる、だけ伝わっていてほしいと願う。

 

●適切な言葉が見つからない、という話とは少し違う。まったく検討がつかない。新しい言葉を作るしかないのだろうか、と思う。
 誰か、この感情を共通認識出来る言葉を知っていたら教えてください。
 「〜〜現象」とか、横文字の名前とか、なんかありそうな気がする。
 

適切な言葉は稀に見つかる

見つかったらそこそこ嬉しい。

 

・言葉を書いている以上、自分の頭の中にある気持ち(本当だったり、虚飾だったりすること。実感はこもってるけど)を言語化している。
 元々人間の感情は形に出来ず、他者に手渡すことが出来ないものなのだから、完全に表現しきれることはありえないと思ってる。(前にも書いた気がする。例えば考えていることの2~3割を上手く表現出来たらいい方だよね。)
 それに、残りの7~8割を言語化出来たとして、それが相手を傷つけないとも、距離が近くなるとも限らなかったりする。相手との会話で傷ついちゃった時とか、相手に対して押し付けちゃいそうなエゴとかがあったりする。それを言語化しちゃったら、相手の所為にしちゃうし、自分のコミュニケーションの未熟さを思い知ったりするし、自分のことが苦手になってしまう。
 自分のことを「まぁこんな私でいいっしょ」って思うには、自分のことを苦手に思う行動をし過ぎてしまうのが人間であったりする。「あーなんであれ言っちゃったんだろう!」とか「あの時あんなことしてなければ!」とか。

 

・例えば、最近「幸せ」って言えなくなった。話がでかいからだ。言葉のテンションが大仰だからだ。そしてと暗に言ってるようだからだ。「幸せになってくださいね」とかは、「今が幸せじゃない、とでも?!」と捉えられかねない。「えーめっちゃ幸せですね!」とかは「幸せの定義なんて人それぞれじゃい!」とか捉えられかねない。
 それらは、「頑張れ」って言われると「今頑張ってないように見えた?」とか、「頑張ってる人にそう言っちゃいけないんだよ」とか、そういうのと繋がると思う。
 まぁ、相手がそう思ってくれたことに目を向けたいのだけれど、そう受け取れないことも、人らしかったりする。

 

 同時に「生きる」って言葉を使えなくなった。最近学んだことを言いたい時に「生きるというのは〜」って言葉がすぐ出てきちゃうけど、言えなくなった。「よく考えてみれば、別に生きようと思って生きてる訳じゃない...死んでないだけ...毎日タスクがあって、もしくはタスクを作って消化しているだけ...」と思ってしまう。
 「生きる」という言葉がそれなりに大仰なのだ。あと力強すぎるのだ。他に考えた所「営み」とか「生活」とかがある。でもなんか言葉が可愛いし、それ故にかっこよすぎちゃう。現段階では「日々を過ごしていると」が一番適切なのかしら、と思う。でもなんか、なんか。ね。

 

・とか考えていたら、最近知人に「快く生きてな」と言われた。「『快く』があったか!」と知人の言語センスに、高いテンションが一週間くらい下がらなかった。
 多分、最終的に知人が言いたかったこと(繋がること)は「幸せに生きろ」なんだろうけど、「えっ幸せに生きるためには何をすれば...」って思ってしまう。
 「幸せになる方法」は分からないけど、自分の機嫌をとる方法はある程度分かるから、「上機嫌でね」が選択肢にあがる。でもそれはちょっとポップすぎる。「楽しんでね」だと、「楽しいこと」だけが正義な気がしてきちゃう。選択の葛藤とか、産みの苦しみとか、それに依る達成感に依る幸せが外れてしまう。ただ、快くだと言葉が非常に適切なテンションとなる。加えて、「生きてな」がいい塩梅でポップに仕立て上げている! 見事! えー、俺が考えつきたかったー!

 

 ついでに言うと、その知人の言霊のおかげか、非常に快く生きれている。

 

・適切な言葉を選んでいきたい。相手に自分の考えてることや、自分のイメージしていることが過不足なく伝わる程度の、適切な言葉を選んでいきたい。でも見つけたら「見つけた!」って叫んじゃいそうな気がする。そういう言葉こそ、心の中にしまっておいて「ここぞ!」という時に使いたかったりする。
 最近比較的いい感じの言葉を見つけた。大切に仕舞っておこうと思う。

認めはしても好まない

好みでなくとも認めたい。


・「私の好きじゃないファッションを着ていようと、私にそれを否定する権利はない」的なことをビリーアイリッシュが言っていた。(正確な発言はどこで見たか忘れたので割愛)
 その通りなんだけど、それをするには「自分が好きなのだから良い」という評価が必要だったりする。アイリッシュの大ファンがアイリッシュに好かれようとして着ていたら「(好きじゃないけど)いいんじゃない?」と言われるってこと。一発アウト。見方によっては「相手が自分の感情を出してくれない」といった点では「そのファッションどうなの?」と言われる以上にキツい。キツくない?
 ゆえに、他人の評価を気にする人、及び他人の評価をする人にとってはどんどん生きにくくなったりする。

 確かに、相手の発言が本当なのかも分からない、って考えると、自分の感覚には正直にいた方がいいな、と思う。人のことばっかり考えてると、自分の感覚が分からなくなったりするし、人の話ばっか聞いてると、自分の話ができなくなったりする。同時に、自分の考えてることが分からなくなったりする。「他人の望む自分になろうとした結果、自分がどんな人間になりたいか分からなくなる」とかそういう状態。

 これからは、「人のことを受け入れ、且つ自分の価値観を作り上げる」ということが大事になってくるのだろうけれど、SNSで他人の話がめちゃめちゃ流れてくるこの時代にそれが出来るのかい。難しくない?


・なんか色んな価値観を尊重する世の中になってきたな、と思う。そのためには、相手の価値観を拒まないこと、受容する必要がある。自分の好みや考え方と違ったとしても「そういうのもあるよね」と考えなければいけない。

 ただ(偏見を混ぜて発言するが)、相手が価値観を人に伝える時って「そういうのもあるよね」というより、「うわー!! すっげー分かる!! その気持ち分かるのって運命ー!!」くらいのテンションだったりする。アイリッシュが「うわ! そのファッションめっちゃいいやん!」って言ってくれる、とか。運命が欲しかったりする。
 自分の価値観や言動が、相手にピッタリハマることなんて、そうそうある訳ないのにな。

 加えて言うのなら、コミュニケーションの齟齬は双方の問題であったりする。自分も相手も未熟なパターンも多かったりする。


・多様性があるなら、本当に人とぶつかりあえることは少なるなるのではないか。「私はあなたのそこ苦手だけど、あなたはいいと思ってるのよね? どうこう口出しは出来ない...」など。
 他人から自分の考えや価値観を否定されることは、自身が思慮深くなることに重要な要素だったりする。どれくらい否定されるか、は要思考だけど。
 価値観が多様化して、相手が自分のことを認めてくれるようになると「自身がなりたい人間には、自身で気づくしかない」となってしまうような気がする。

 あと、相手の直した方がいいところを指摘するときに「いやそれ直したほうがいいよ」「悪くはないけど、もしかしたらこう思う人がいるかもしれない。だからこうした方がよりベター」みたいな言い方をする人、めっちゃ凄くない? 感情のコントロールが出来るっていうか、「自分の感情より、相手にどう言ったら分かってもらえるか、を優先出来るんだなぁ」とか思う。めっちゃスマート。それが真に他人の価値観を認める、ということか。

 余談だけど、傷つけられたい時だってあるよな。ぶつかり合った人ほど、罪悪感か、はたまた敵として認識した故の恋か、好きになってしまったりするし。なんかメンタル的に不健康だけど。


・自分のことは、認めた上で、好ましいと思っていたら楽だろうし、、他人にもそういった好ましい人、言い換えれば「合う人」がいたら嬉しい。
 あと、スマートに相手に自分の考えを伝えられる人はすごい。